大人が本気で遊ぶとすごいんだぞ by管野よう子
本日の名言。
たまたま見ていた動画の解説にこのフレーズがあって、何か今の自分が忘れてしまっている要素を思い出したような気がする。
本気で、遊ぶという感覚を喪失しているのではないかということだ。
堅苦しいものばかりを考えたところで何も始まらない。
ただ、気楽に遊ぶということが重要なんじゃないかと思った。
自分の生き方が表現、芸術だということを考えると、遊びの要素がないとどう考えても肩肘張った面白みのないものになってしまうのではないか。
自分が本気で遊んでいたのはいつだろうか。。
情報技術の発展で、大学の講義までもオンラインになり、さらに論文もネットで検索なんて赤子の手を捻るように簡単にできるようになった。
なにより、家にいて、パソコンの電源を入れて、インターネットのつながれば、ほぼ欲しい情報を拾える。
それも、大抵ただで手に入る。
どうして、それが可能なのか?
大学の講義をiTuneで拾ってきて、教科書をamazonで買って、講義資料もウェブから拾ってくる。
そんなことが簡単にできる。
それもただで。
下手な授業を受けるよりも面白いし、世界最高峰の授業が受けられる。
やる気と英語能力さえあれば、誰でもどこからでも授業を受けられる。
しかし、そんなことやったら、大学の意味合いがなくなってしまうのではないかということになるのだが、そんなの関係ないかのようにどんどんコンテンツが増える一方である。
優れた講義がだれでも受けられるというすごい状態である。
ひとついえることは、これらは知識なのであって、智慧ではない。
智慧は、知識が人によって消化されて、その人物のものとなって初めて智慧となりする。
知識が重宝された時代は終わった。
知識はただで、あるいは、少しの金額で手に入る。ネットにせよ、本にせよ、手にいれることができる。
知識よりも、人的な資源である智慧に価値がおかれているからこそ、知識の無料提供、あるいは安価な提供が可能となっているのではないか?
智慧の集積場と大学をみるとその知識の放出の意味がわかる。
上質の知識を放出することで智慧をもった人間があつまりやすくなりからこうなっているのではないか?
はっきり言ってしまえば、知識だけしかないものに新しいものなんて作れない。
ものを作れる人間が重宝される。
クリエイティブな仕事にこそ価値がある。
それは、歴史が証明してきてるし、ただ仕事をするということはそんなに価値がない。
知識偏重主義な日本の教育がこの先、この国にもたらすのはなんだろうか?
ネットという知識の宝庫への適応もできてない。
創造的なサービスがないのも、なにかその辺にあるような気がする。
経験、知識、思想。。
それを身体になじませて、智慧を獲得して、行動するものが強い。
何も持っていなくても知識、智慧を持ち合わせるものは強い。
なぜなら、自分でものを作れるからだ。
与えられたものに満足できない。
これがあったらいい。
誰かそばにいてくれたらどんなにいいか。
もっと良い場所、もっと良い環境があるんじゃないか。。
そんなことを思うことがしばしばある。
しかし、本当にそういう願望が実現したとして、本当に自分は満足して、至福の時を味わうことがあるのだろうか?
それは、一時満たされた感じを味わうことになるだろうが、その後は、そんなことはないのではないかということだ。
再び、他の人、もの、場所へのうらやむ心が、もっと求めるようになる。
そして、限りなく、求め続けていくのではないか?
気がつけば、恋人がいたりして、それを得るまでにものすごく幸せになれるという予感を抱いていたりするのだが、いざそれが現実となるともっと幸せになれるのではないか、あるいは、もっといい人がいるのではないかという気が起こってくる。
そして、その現状が前の自分が望んでいたはずなのに、ものたりなくなる。
他のものでいえば、欲しいものをやっとのことで手に入れて、それで満足するのかといったら、そんなことはない。
再び、他のものが欲しくなるだけではないだろうか?
欲しいものがある状態と手に入れた状態では、確かに後者の方がいいように思える。
しかし、前者も後者も大差ない。
同じだけ、他への欲求というものを持ち続けている。
結果として、今の現状への欲求不満となる。
どんなにめぐまれようと自分がその状況より、先のものへ思いをはせ、結局、今の自分をみることなしに、求めることばかりしてしまう。
そんなことを繰り返す。
恋人ができようと、欲しいものが手にはいろうと、なりたいものになろうと、結局、前の自分が望んでいたものであって、それを手にした自分と別ものである。
その結果、満足なんてすることない。
そんな他に自分の欲求のはけ口を見つけようとする試みは大抵うまく行くはずがない。
今の自分を見ないで、未来の自分の状態に幸福を見ようとするのは、人間の性なのか?
それは、わからない。
けど、今の自分をみるということほど難しいことはない。
何かを求めて、満足しようとする行為はなにもうみやしない。
それに向かって行動するという意味では良いのかもしれないが、なにか満足しようと、至福の時を得ようとして、やって意味をなすことはない。
望んだ自分の状態にはなれない。
未来の自分への期待と同じだけ、時間を費やすのが、過去を悔やむ行為だ。
過去を悔やんでも代わりはしない。
過去から学ぶことは重要であっても、過去への悔やみは何も生まれない。
なにもない。
過去は、もう過ぎ去ってしまって、どうにかできるものでない。
それを分かっていながら、やってしまう。
こうして、今という時間を消費して、再び、これを悔やむ。
それの繰り返し。
未来にしろ、過去にしろ、それに対しての欲求は、なにも生まず、繰り返しを生み、今を浪費する。
じゃあ、本当に満たされた自分になるためにはどうするべきか、今しかない。
今に満足するということだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
それだけで、与えられたものを最大限に生かすだけ。
その生き方こそがいいのではないか。
どんなに何か、望んでも、手に入れた途端に輝きを失う。
それならば、今に輝きをみつけようではないか。
本年もどうぞよろしくおねがいします
今年は、とりあえず、エヴェレストに登るつもりで頑張ります。
一人暮らしやら、単品潜入工作やら、単独ミッションやら。。
今年は一人で、ものごとをしなければならないことが多かった。
研究室でも、大学院でも、やはり僕一人の問題であり、結局だれの問題でもなく、ただひたすらに研究を進めるだけだったのではないかと思う。
己の責任で己のやるべきことをこなそうとしてきた。
そして、いくつかは達成され、多くは達成されることはなかった。
そこには、多くの選択肢の中から最適な解を得ることができなかったということである。
多くの選択肢を残しつつ、ことをすすめようとするあまりに何事も中途半端になった。
その結果として、そんな多くのことをこなすことができなかったし、そのことが自分を焦らせた。
焦ってもしかたないし、ひとつひとつをこなしていくしかないという事実だけを前に、ただ闇雲に歩き続けようとして、転ぶことの方が多い一年であった。
どこかしかに、救いの手があるのではないかという願いが己の中にある判断力を鈍らせて、己の責任を外部へ移転しようとして、まったく動こうとできなかったりすることが起きたり。。
結局は、何事も自分の責任でのみなにかをやりとげることができ、ものごとは、そうでしか進まない。
自分が責任を命をかけて全うしようとするときに本当の目的が見え、そしてそれに向かいすすめるのではないか。
そんな感じに自分の責任を外部に委託したいという願いが強かったように思う。
ここで、サラリーマンなり、会社の研究員なり、院に残って、学者として生きていくにせよ、そういった自分の責任を和らげてくれるかもしれない日本の社会の因習に載った生き方をしたいなんて同時におもっていたりするわけだから質が悪い。
そこにあるのは本当に、無責任で、自分らしく生きることの放棄だ。
けれども、楽であるという直感はあるわけだ。
責任を負うということは、命をかけてそのことをするということになるわけだ。
ところが、己が命をかけてできることは、そういった社会の一部として生きていくという方法ではないということを理解している。
そういった、社会の一部に成った方が自分の責任を全うして、全身全霊で戦い続けるということができる人間ならしも、僕はそういった型の中にはまりつつなにかをすることができない。
それは間違いなく、自分が社会の一部として働くとき、例えば、会社にせよ、研究所にせよ、そういったところに属すれば、破壊することになるということが大きいから僕自身が全力投球で仕事をすることができないということが言える。
破壊することに対して僕はもの凄く臆病で、そしてなによりそれが自分にとっていやなのだ。
自分が責任を全うしようと努力している最中にあっても周りの声やら、その中での規範というやつが僕を雁字搦めにして、身動きがとれなくなってしまう。
動こうとすればするほど、周りを破壊し続ける。
そんな感覚がある。
けど、一方でなんらかの新しいものを作り出しているという事実も存在している。
だけど、その己が行動することにより、大きな波が生まれるということが分かっている故に、それを最大限にして、なおかつ、中庸であり得る場所。
会社とかの社会システムが本当にそういったものを許容できるのかといったら、それは熟れた存在故に、刺激に対する許容能力が乏しい。
まあ、日本の社会は、どこも保守的だということを考えれば、当然ではあるのだが。。
そういった意味で、僕は、社会の外側に立って、影響力を如何にのばすのかということを考えつつ、熟成された社会とどのように関係を保かということを考え続けた。
どんなに頑張ろうと、僕は僕であり、そして、僕には無限に広がる可能性と、不可能を可能にする力を否定することができない。
もし、それを否定することができるものがあるとすれば僕自身だけである。
背に腹は代えられない事実としてそこにある。
絶対にあるのは、可能性を信じ続ける僕という存在。
それは、情報というものを切り口に人間というものを考える存在。
それは、人間という生き方を如何に実践するかを考え続ける存在。
僕には、無限の可能性があって、それを追求する。
奇妙だ。
夢想することだけが生き甲斐だった。
それは、夢が突然さめてしまった2006年から、再び夢が訪れるように願うだけの日々。
現実を歩きつつ、夢想して、責任を負うことを否定した日々。
なんか、現実と夢の間を往復してしまって、夢を現実にかえることを少ししかしなかった。
夢は、現実になる。
けど、その道は責任と無常がつきまとう。
だから、面白いのだけど。
けど、僕は、まだ完全には、強い自分を描ききれてない。
07年の僕は、夢想家であった。
夢想することで一生懸命で、積極性がなかった。
来年は、08年、八千万の年は、積極性を磨き、夢想家から脱却して、実業家になる年にしたい。
来年はとりあえず、人並みの年収以上を稼ごうと思う。