大学院という場が活動の場になってから、僕は、研究をするということをひたすらにやっているつもりでいた。けれども、ふとそこから離れて俯瞰してみると、ひどく何もできてないのではないかという感覚に襲われ、そこから距離をおいている状態が続いている。最低限だと思える程度にしか、院に行くことがない。やっていることは、変わらずにただ研究をするということである。けれども、なにも変わってないなという感覚が、僕を襲う。人間関係のややこしさ、人に話しかけられて中断すること、飯を食う時間の自由のなさ、とか、日常的なやりとりから開放はされてはいるものの、それ以外はなにも変わらない。やることは、本読んで、論文読んで、コード書いての繰り返し。そんなのが嫌で、なにかものを作ろうとするけど、それは本分ではないと思い、結局何も出来ず仕舞。
多分、院という場所を選んだのは間違いだったのかもしれない。同じようなことをして、お金を稼ぐという方法もあったのではないかと思う。ただ、アカデミックであるから自由であるような印象を受けていた自分がいたわけで、自由だから何をやっても行けるだろうと思っていた。けれども、院という場所に身をおいてみれば、結局は、金を貰うか貰わないかの違いしかなく、社会の一部でしかないという事実が明るみになって来て、頑張れば頑張るほど、評価は貰えるかもしれないけど、どこか、いいように使われているという感覚が大きくなっていく。どんなに頑張っても、修士という称号が貰える以外に特典がない。環境を最大限利用してやろうと意気込みで入ったのだが、気がついたら、環境なんてパソコン一台あればどうにかなってしまうようなものだと気がついて、非常に失望してしまった。特殊な機械を使ったなにかというものを研究材料にして、なんてことを考えていたが、結局のところ、特殊な機械なんて存在してないということを痛感した。それは、院に入ってからなんだかんだでいろいろと見るチャンスが増えてそれで、どんなものなのかという情報へのアクセス方法が提示されて、良くわかるようになって、実際にアクセスしてみると、やっていることは、複雑そうで実は基本的な自然法則の延長であったり、基本素子の集まりであったり、基本的な電化製品のよせあつめだったりと、作るということを知っていれば出来る代物が多かったりと失望させられた。なにより、コンピュータが高度化しすぎた所為で、もともと1000万とか、数億とかそういった学生の身分には、手が出せないようなものというのが陳腐化して、廉価に手にはいるようになった所為もあるだろう。そういったものの基本原理さえおさえればどうにかなってしまうという罠。それに、新しいものは、結局、無から生み出されるものでなく、何らかの過去の先人の積み重ねの上にしかないという事実が、失望に輪を掛けた。つまりは、先人の積みかせねを如何に組み合わせていくのかということだ。それで、今の様々な技術が出来上がっている。先のアイディアの源泉で書いたようなことである。組み合わせをどれだけ試すのかということが鍵になってっくるということが重要だということだ。まあ、しかし、日本のICT分野において、それがうまく行っているという例は限りなく少ないのではないかと思う。既存の延長みたいなイノベーションは結構面白い感じに最先端は知っているけど、未知のものをつくりあげるということがあまりないと思う。インターネットサービス関係で日本が誇れるものがどれだけあるのだろうか。ほとんど、欧米のデットコピーではないだろうか?まあ、そんな感じにイノベーション、イノベーションというわりに、研究の中身がデッドコピーに近いようなものばかりで辟易した。
そして、なによりイノベーションを起こす気がないのではないかと思えるくらいに酷く院の環境は、権威主義で、なにより官僚的なのだ。まあ、イノベーションで金儲けできそうならそれを転売して稼ごうなんていってるわりには、全然あほらしいくらいに、馴れ合いで完結している。そんなのを傍目に理系をこの国でやることが得策どうか疑問に思えてしかたがない。
将来への不安で、なに自分でやらなきゃならないなんて思って、院から距離をおいて、いろいろ考えて、いろいろやってみようとするけど、どうも空回り。社会そのものへの失望というものを味わって、どこかあきらめている自分。その一方で、いろいろなアイディアでかえられる可能性を見いだしている自分。その両者のせめぎ合いで僕は、僕でないような感覚を毎日感じる。そして、まるで白昼夢をみているような、何もない世界を歩む。それは、院に入る前からわかっていたことだ。どこかいびつになり始めてる世界を感じつつ、それが自分にどんな影響をもたらすのか、恐怖だけを感じて、何もできないままでいる。
何かをして失敗したらどうするとか、何かを壊したらどうするとか、そういった行動することでもたらされる当然の産物を受け入れることを拒絶したいるし、実際起きればたいしたこともないない失敗というものへの過大評価で、体すくんでなにもできないでいる。人間関係でも、それはあてはまる。なにか、やったらこわれる。その結果、言動を制限して、なにもしないで失敗するような事象がすぎさることを期待し続けた。結果は、何もしなかったことで変わるはずの事象も変わらずにそのままにされ、時だけが無駄にすぎていった。結果として、僕だけが社会の最底辺に取り残されたような形になっている。行動するということが、すべて失敗につながるような感覚が僕を無能にする。そして、げんにそれは起きていて、僕は、金なし、地位なしの木偶の坊以下の存在であり続ける。
そんな感じに、行動することへの恐怖でなにもせずに、何もかもが、過ぎ去るのを待ち、ただ身体的な悦楽を求めて、煙草、オナニーをし続ける。なにも生み出さないからこそ失敗もなく、ただ動物的な生きるということを続けているだけである。悦楽を求めるのは簡単であり、なによりリスクがない。リスクをおえなくなった僕は、なんの価値もない人間である。恐怖を感じるのは当然として、そこから逃げ続けた。そんな人間に価値があるだろうか?ない。
まあ、そんな感じに価値があるような発言をするけど、一方ではその発言通りに行動できない僕はとんでもなく価値のない評論家に成り下がっている。
そんなんじゃ、恋人にも逃げられるし、自暴自棄にもなる。
今の僕には、間違いなく恋愛なんてものをこなせるはずはない。それは一年ちょっと前の恋人がいた状態にも適応できる。逃げてばかりの人生。そんなのにだれが惹かれうるのだろうか?
例え、好きであっても逃げられる、続けられなくなるというのは当然だろう。