昨日、ひょんなことで自分がやってきたことと、学問分野とかにおける一つのやり方的な方法論が見えた。
それは、何にするにも適応できるというすばらしいものである。
まあ、こんな簡単なことにどうして気付かなかったのか分からないのだが、ふと気がつくとそれがとんでもなく汎用的なものであったので備忘録として書いておこうと思う。
デザインとか、3Dやるときは、おおまかな形をとってやって、そこから全体のバランスを整えつつ、細かいところへ落とし込んでいく。
まずは、全体的に、プリミティブなものから組み立てていきそして、だんだんディテールを刻んでいく。
それは、彫刻においても一緒である。
ここ最近、仏像を彫ろうと、木を削り出して形にすることをやっている。
そこでもおなじで、おおまかに形を削っていき、そしてディテールへ落とし込む。
また、感覚的に大事なのは、どんな形状の組み合わせであるのかということを探しだすことである。
そう、プリミティブな形がどこに隠れているのか探すのだ。
そうすると、だいたいどうやって彫っていけばいいのかというのが見えてくるのだ。
そうやって、荒く削って、そして段々と細かい所へ手を延ばしていくのだ。
それは、とてつもなく3Dのモデリングと似ているものだなとおもった。
おおまかな当たりなしに、ディテールから彫っていくとしまいには、全体の形が歪む。
全体を意識しつつ、ディテールを彫ると大分収まりいい。
そのプリミティブの集合として、全体のバランスを見れるかが鍵何じゃないかと思う。
まあ、そういうことで結局、デジタルだろうが、実際の物体だろうが、プリミティブに還元してやることが、秘訣なのではないかと思った。
プリミティブなら、どうやってそれを作れば良いのか分かるのだから。
そこから、ちゃくちゃくと細かくしていくと段階において様々な道具、手法が必要なんではないかと思う。
けど、その段階においても考えるべきことは、どうやって求める形を作っていくのか、その過程で、行程をいかにシンプルなものとみるかなのだ。
全体から、目や、口を削りだすことにしても、そこに何をしなければいけないのかということを、つぶさに考えてやると、シンプルな解法がみえてくる。
いろいろと手段が見えてくる。
その手段は無数にあるが、目的は一つ。
形を作るということなのだ。
そこに当たって、難しい問題が潜んでいるように思う。
道具にばかり気を取られてしまうとキリがなくなってしまうということだ。
いろいろな手法、道具が用意されている。
例えば、3Dのモデリングにおいては無数の手法が提供されている。
そういうのを勉強するのは重要ではあるが、目的はあくまで形をつくることである。
そのことを忘れることが多いように思う。
実際、機能が無数にあるようなソフトを使っていると、機能にばかり目がいってしまい、目的を忘れてしまう。
けど、目的は形を作ることであるから、そこを冷静になって、形を作ろうとすれば、自ずと道はひらけてくるのではないだろうか。
おおまかに単純化し、行程をシンプル化し、そしてそれでも道具が足りないなら、探してみればいいのではないか?
まあ、道具を知るという過程はあくまで副次的だということを念頭におきつつも、それを勉強してみると、作業効率があがることなんていくらでもある。
ただ、作業もしないのに作業効率をあげ続けるのは土台意味がない。
そうこう考えると、手を動かして頭の中のものをアウトプットしなければならないのはいうまでもない。
普通に考えると勉強をひたすらすればいいのではないかということになるのだが、インプットだけでは、残念ながら、生産的なことはできないし、できるようにならない。
本当になにが必要で不必要なのかは、実際に道具を使ってやってみなければわからないということ。
そう考えると、釈迦尊が、知識が邪魔で、知恵を身につける方が重要であるということをおっしゃられていたが、やはり、知識だけを追い求めてもそこにはなにもいいことなどないということが見えてくる。
それは、ひたすらインプットしていっても、それを使って実際にそれがどうなのか理解しなければ、意味のある知識とはならないからではないか。
インプットとアウトプットのバランスこそが人間の生きる上で必要なものではないだろうかとおもう。
さて、そういうのがものをつくるということではないかとおもったわけだが、例えば、文章を書くにせよ、プログラムを書くにせよ、なにかクリエイティブとちょっとでも関係するようなものには、こういった性質があるのではないかと直感的におもってみたりもした。
それが、必ずしも真であるということはないだろうけど、だいたいのところであてはまるのではないだろうか?
抽象と具象、インプットとアウトプット、なんらかの2対の存在を、行き来しつつ、バランスを取りながらものごとをすすめなければならないのではないだろうか。