無意識なのか、意識なのかわからねども、ひたすらに勉強するということが心地良いように感じてる今日この頃。
何をすべきで何をすればどうなるかなどのことがよく理解できるようになってきた。
最近、社会に対する不満やら、不信やらは、行動をして自分ができる範囲で、自分の影響が与えられる範囲で変えていこうという意思が明確に現れてからは、行動の理由として役にたっている。
嫌なことはないといったらうそになるかもしれないけど、ただひたすらに行動するしかないという現実しかないということを理解している。
行動しなければ何もはじまりもしないし、何も進みもしない。
ただ自分の意思で物事をやっていくことがそれだけが自分にとって最大の幸せへとつながる。
幸せは向こうからやってくるとか、他人がもたらしてくれるということはまったくなくて、ただひたすらに、行動をしてその中に、今生きている瞬間に見出せればいい。
過去、未来の中に幸せを見出そうとしてもそれはあくまでも妄想、あるいはただの曲解だったりして、結局のところ今の自分の幸せへはつながりはしない。
自分がただ、ここにあるということと、そこで何をして、何を考え、何を感じるのかということ。
それが幸せのありかではないかということ。
まあ、どんなに求めようと、幸せになることを今の瞬間にやっていないのなら、幸せを感じることはないだろう。
未来への期待、過去への執着、ある程度はすべきではあるけど、それに依存すべきではない。
脳みそが作り出す幻想の中で人々は踊るけど、本当の自分の置かれている環境においてはそんな仮想空間上での話はまったくもって意味を成さない。
けど、たいていはその脳みその作り出した幻想で踊る。
そう、こうあったらいいな、あれがこうだったからだめだったんだとか、欲、後悔、怒りなどの感情で今をみることを忘れている。
偏見だとか、そういった人間の醜い部分は、そうした過去への執着やら、未来への期待が生み出すもの。
それなのにたいていの人はそれにすがって生きる。
それらを機にがんばったところで、裏切られるのは当然。
何が起こるかわからない未来、もう起こってしまって何もすることができない過去、その双方は結局はどんなにあがこうが変えることができない。
変えることができるのは現在のみ。
そのことを忘れ、どうにもできない事象への執着のほうが人間は好む。
でも結局、その不可能への期待、希望、執着が結局は自分を苦しめているのではないか。
ただひたすらに今に生きる。
それだけが人間が邪悪にならないための方法なのではないかと思う。
なんという今だ。 今こそ、永遠
河井寛次郎