他者でもない、ただ唯一無二の存在。
自分をしり、自分を見つめ、自分を高める。
ただ、そのプロセスが人生であるはずだ。
この世は、自分を見に来たところ。
河井寛次郎の詩の一節。
これは、なんという深い一節なんだろうか。
この国は、この国が何者であるのかも忘れ、
人々もまた自分が何者であるのかを忘れている。
そんな、ありきたりの人生の日々の本当のありようを示してくれているように思う。
自分というやつのアイデンティティは自分で見つけるしかない。
大きく、複雑な自然のシステムの一つである自分と自分の体をどれだけの人間が理解しているのか?
この小宇宙を知らずに、もっと複雑なシステムを知ることはできない。
それは、なんだろうか、自分をみるという行為を通して、2000年以上も前に釈迦尊が教えた自分という存在のあり方理解、これを一体、20世紀以上も隔てた我々が知らない、その状態から遠いのはなんでだろうか?
我々はなんでもしっているような万能、進歩史観の上に、自分、自我の存在をわかっているようなつもりでいる。
そして、その理解が自分がどのように世界を見ているのかということを理解しているのかということへ曲解へつながるのではないか?
教育、人生の初め20年あまりで教え込まれる常識、知識で我々は自分の見方がそれによればいいような感覚を覚える。
けれども、それ以上に遺伝子、自分の体に刻まれている機能はそれを凌駕する。
つまり、自分について知ってるようで、結局はなにもしらないのだ。
理系的な議論が僕はきらいだ。
そりゃー、本当にこの道、何十年の本物科学者の議論は好きだ。
ただ、同年代の連中の言葉をただくみあわしただけの木偶の議論はきらいだ。
結局、自分の目で見たことじゃなくて教科書の上の出来事だからだ.
自分の体を使って教科書通りの実験をやろうとすると相当慎重にならないとうまく再現できない。
人生はアバウトなのにどうしてだ?
そりゃー、自分の目が節穴だからさ。
多分、自分にとってさほど重要ではないと思えるようなものが実験で悪さをするのさ。
でも、大抵は教科書通りになりました、はい、で修了。
自分には、指定された通りの実験手引きをやってるつもりでも落とし穴がある。
人の認識の限界が顔を出す。
綺麗にできましたよって、いうやつの気がしれない。
いつも、データ取ったりしていた時、思った。
教科書みたいに直線、曲線にデータが乗らないじゃないかと。
でも、それは誤差だと教えられた。
はてさて、本当にそうなんかい?
自分の計測時の目ばかりのいい加減さ、そして、その他もろもろの目に見えない要因。
それが誤差の原因だとおもった。
参ったね、勉強してミクロの単位では振動してるだと。。
そんなことを思うとじゃあ、機械任せではかっても誤差でるじゃん。
じゃあ、どうがんばっても理論通りに綺麗にならんよ?
人間って、いい加減だなと思った。
大まかにあっているからそれでいいんだということがわかったさ。
計算機の数値解析なんてやったら、近似、誤差のオンパレード。
完全にこれだという値に近いけど完全にえられないんだと認識したさ。
ああ、人間の限界ってあるんだなとおもった。
そんでもって解の出る問題ってのは少数のものだということも理解した。
さてさて、それって科学って完璧じゃないし、人間も完璧じゃないってことがわかったわけだけど、じゃあ、人間の認識とどう関係するかって?
じゃあ、実験やって教科書通りに成った時、喜びはしゃいでいたわけだけど、その現象だけとりだして、確認とれたと喜んだ、けど、他の自然で起こっている現象は?
全部、教科書にのっているのさ。。
なんてことはない。
確かにロジカルに考えて、こう成るんじゃないかとか、いろいろ理論が考えられているけど、本当にそういう風に見た人がいないものも多い。
実験で確かめられることも多いよ。
でも、それより先は人間の目には見えない。
微々たる反応かもしれない。
人間の限界だな、こりゃあ。
でも、どうやったら見たら良いのか考える奴が居るから面白い。
限界が分かれば、それを問題にいかにしてそれにソリューションを与えるか考えられる。
自らを知って、自らの誤摩化しを認めて、そこから新たな方法がでてきた。
人間は道具を作って、その限界に挑んだ。
それが、様々な人間の感覚機器の限界を乗り越えた。
限界に挑戦し続けて、さらに先へって感じにいろいろな現象が突き止められたと思う。
そんな感じに追い求められたものが教科書にはわんさか乗っている。
感覚的に分かったような気がする。
だけど、人間が作った機械も発展途上だし、自然は膨大な神の記したバイブルなんていわれるくらい膨大。
そんなんで分かるんかいな。
人間の認識でこうだと決めて掛かって覆ったことなんていくらでもある。
今の科学が絶対だと言えないのもそのあたりにあるし、あやふやな中にこういうものといううっすらとした輪郭が見える程度。
どこからどこまでが何で、ここからが何みたいな明確な線引きができない。
けど、そんなことをやる科学者が多い。
こうなんじゃないかなと言う科学者の方が当てに成る。
地質学でお世話になった先生もそんな方だった。
知識は物事を見る目に明確な境界を与える。
けど、本当の物事に明快な境界はない。
自分というやつがどうやってものごとを認識しているのか自覚的になればなるほど、絶対というものはない。
ただ漠然とあるだけという感じになる。
自分がどういう風にものごと判断してるのか知った時、厳密性なんてないことに驚く。
けど、あやふやの中から真実に近いものをみることができる。
自分が自分であるためには自分を認識しなければならない。
その前に自分がどういう風に認識しているのかしらないといけない。