最近は専ら基本的な微積分、線形代数学、統計、情報理論、計算理論などの学問分野を勉強している。なんだろうか、一度は勉強しているはずの分野であるのだが、今もう一度勉強していると見過ごしていたことが多い。そして、なにより、それをどのように応用すればいいのかということがわかって来ている故に、習ったことがあるはずの分野でも全く違った視点から俯瞰できているのではないだろうか。
その傍らで、それよりももっとファンダメンタルな高校数学のテキストを時たま引っ張りだして読んでいたりするのだけど、恐ろしいほどに内容が濃いということを思い知らされる。そんないろいろなことに応用することができるようなものを詰め込み式でやられていたのだから、違和感があって当然だった。アメリカなんかの教科書だと分厚くいろいろな周辺分野への応用とかが載っているようだが、日本のは完全に公式、計算方法を説明しておわっている。そして、受験という儀式に向けてそれに最適化された解き方を教えるに終始一貫している。そんなわけだから、高校時代に数学が嫌でしかたなかったし、そんなことをして何にになるんだという思いが強かった。実際への応用ということをみるしても、その数学的な世界の広さを語るにしても、ただ解を求めることと暗記することを前提とした教育では、その本質にせまることできない。今更ながら、高校の教科書を引っ張りだしてそこに載っていることの面白さ、重要性というものが見えて来てるだけでも自分は成長したのかもしれない。
しかしながら、自分が今、学生ではあるが、研究者の端くれとして大学院なる教育機関に身をおいているが、すっかり自分は周りから外れた存在になり始めているように思う。勉強は自分でしなければ学べないということを大学時代に学び、講義は先生の話に耳を傾けさまざまな知見をえる場だという位置づけた。講義からハードコピー以上のものが受け取ることができるのならば、すばらしいものだし、学ぶものも多い。そういった講義が山のようにあった学部時代にくらべて、今の講義は、教科書のひら読み以上のなにものでもない。クラスメイトと議論する機会もないし、ただ1時間半座って、パワポの解説されるだけだ。面白くもないし、話がうまい先生ならまだしもあまり話もうまくない。ただ、くそまじめに授業をうけて、解答用紙に答えを埋める作業に何の意味があるのだろうか?そんなことを繰り返せというのは、高校まででいいような気がする。議論、先生の厚みのある話、そういった要素のあった学部時代は恵まれていた。そして、アカデミックに物事をすすめるとはどういうことなのか学んで、自分でできること、周りとすることを学んだ。けれども、今の院の生活は、そういったアカデミックな雰囲気とは違った、ただ与えられたことをこなしていく無味乾燥した世界だ。どうも、今更ながら「学ぶ」行為ということの意義を改めて考えている。
皮肉なのか、どうなのかはわからない。ただ、自分の中での勉強の方法と院での勉強方法が違うということは間違いないだろう。生産的方法は多様に存在するとおもうのだけど、どうも今いる場所は多様性はないのかもしれない。
これはこう。あれはこう。といった型にはまった議論なのか、それともただ純粋にこれだけ知っていればいいということなのか。 はっきりわからないが骨抜きにされているような気がする。
わからね