ここいら最近、体の調子の悪さ故に、学校から離れた生活をしていて、今の自分というやつを内省する時間が山のようにあった。
少し、調子がいいと本を読んだりするわけだ。
本を読むことは、著者の考えに触れいろいろと社会の見方というやつを勉強するのに最適だったりする。
自分が何気にすごしている社会というやつを違った視点からみることができたり、場合によってはこの社会がどんな人間によって作り上げられて来たのかということを知ることができる。
最近は、あまりビジネス書の類いを読む機会、暇がないわけだ。
けれども、そこで得た知識と、自分の現状を照らしあわせてみたりすると、その内容との乖離が著しいと感じることが多い。
まず、第一に昨今の海外のビジネス書にいわれているような、ビジネスのやり方と国内でやられている効率化の名の下に行われているビジネスとでは雲泥の差が存在する。
海外のやり方を取り入れて「効率的」な運営のしかというやつを実践しているかのようにビジネス雑誌とかでは取り上げるけど、
実際に現場の人間の叫びやら2ちゃんでの人々の発言やらをみていると相当違うことをやっているように思う。
なぜにそうなったのかというのは、明確で「効率化」ということが利益という計りのもとにはかられているからである。
アウトソーシングやら、能力給やら口当たりの良さそうな言葉で偽装された搾取によってそれが成り立っている。
そのことの証拠をあげろといわれても、なかなか難しいが、ただ今のいろいろなところででてくる社会問題やらはこれらの偽装された搾取が引き起こしているのはいうまでもなかろう。
そんな感じに西欧の先端のビジネス手法を借りた搾取が跋扈しているのが今の日本なわけだが、実は、そのビジネス手法の根幹をたどるとほとんどが高度成長期の日本の手法、東洋の思想に根付いたものがかなりあるという皮肉なものが存在する。
浅はかなビジネスマンは、向こうの本を読んでそのままを受け取ってそれを実践しようとしてるのかもしれないが、結局自分たちの根幹にあったものを別の形で受け取っているのにすぎず、それが目新しいように映らない。
それは、当然で、自分たちが普通にやってきたことだからだ。
それで、利益をあげられそうな所にばかり目が行き、結果として形骸化した形でのビジネス手法の輸入となる。
そして、今までそれでよかったはずのものを切り捨てて、「効率化」を押し進めていったのではないかと思う。
当たり前なことほど、おざなりになるのは、自分たちが日常生活を送っていても普通におこることである。
当然だからという感覚はすぐに忘れて、どこか非日常性を求めるようになる。
まあ、そんな感じに日本的なものを強引に”西欧的”なものにおきかえるという作業を繰り返し、今では筋も通らないような方法でビジネスが行われることが多いのでなかろうか?
しかし、日本を代表するような企業を作り上げて来た偉人たちの伝記、エッセーなどを読むとただ西洋的なビジネス、云々よりは、自分たちのもっている持ち味を如何に生かすか、西洋的なものは本当に吟味を重ねて取り入れるということをやっていたことがよくわかる。
一方、今はどうかというとただ単によさそうだから取り入れるということをやって自分たちの持ち味すらも壊して、システムがスパゲティ状になっているのが今の惨状ではなかろうか。
ただ単に教養のなさがそれの引き金になっているのはいうまでもない。
自分たちがどんな民族で、どんなことをやってきたのかということをしらぬままに、こういうことがある、ああいうことがあるということをやっていても、自分を知らぬのだから、それが自分の役に立つ形でそしゃくすることなど、できるはずもない。
自分を知らぬということは、何事においてもいえることだとおもう。
今の、政治、社会、ビジネス、そして各個人の人生。
それぞれのものにおいて、周りに流されたり、だまされたりするのは、自分というを理解してないからではないか?
自分というやつを知るには、自分の起源、自分を取り巻く環境、そして自分の内宇宙への目がないとそれができない。
自分への視点をおざなりにして、外部を理解しようとしても、それは形式的な理解にしかすぎない。
そこに今の日本が格差社会だとか、ワーキングプアだとか、問題をはらみつつ、数字の上での成功しているという虚無的な状態を生み出している一員があうのではないだろうか。
自分を知るということは、何事においても大事だ。
特になにかを学ぼうとするときに自分というやつへの理解なしに、外部のものを理解することは無理だ。
しかし、そういったことなしに今の社会は、外部のものを理解することを強要する。
国として、こういった形で、形だけで物事を理解しようとして破綻しかけたのは、これが3度目のはず。
明治、戦後、そして今の現状。
一生懸命に追いつけ追い越せをしようとして、その結果として日本という自分たちの肖像が見えなくなっているのはしかないことである。
しかし、明治、戦後と西洋的なものを取り入れる過程で、うまく、適応できたのは、日本的なもの、自分たちとは何なのかということを理解することができていた人々がいたからにほかならないのではないだろうか?
西洋というものを解さないと、世界と渡り合えないという状況で、自分たちの国とはなにかとを問い続けた人々がいたことをわすれてはならない。
その自分たちへの理解と西洋への理解を同時並行的にこなすことができたから明治、戦後とうまくやってのけることができたし、世界でも屈指の国へと成長できたことはいうまでもない。
そういった意味で、今のこの国に必要なのは、もう一度原点に立ち返って自分たちとは何なのかという問いを発する必要があるのではないか?
追いつけ追い越せという時代は終わり、安定し、そして崩壊の一途を辿るのが文明の運命なのかもしれないが、今のご時世に一つの国が崩壊するという意味は世界大戦を意味する。特に列強の国がつぶれるというのはそういった意味に他ならないのではないか?
しかし、今のこの国にそういった内省的な視点があるのかといったら、ないだろう。
どこか、西欧にばかり目がいって、この国自身については語られることは少ない。
自分たちという感覚がどこか、流行だとか、社会に措定されるものだという感覚が根強いのではないかと思う。
それで、自分とはなにかと問うと途端に自分探しだ、個性だと変な強調が生まれる。
ただ、あるものをみればいいだけなのに、そういった行動に走るのはなぜだろうか?
至極明快に、自分というものを外宇宙の一部としてみて、内宇宙から離れたところから自分をみなくなったというのが一員のような気がする。
自分をみずに、理解せずに、ほかを理解しようとしても、自分という膨大な存在がどんな風に外をとらえ、何がいいとおもっているのかすら、理解することなしに、ほかのものがどんなものなのかということを理解することはできない。
自分というフィルタがどうやって外世界をゆがめているのかということを理解しないでみたら、世界は歪んだままだ。
補正するという意味で自分というフィルタを理解する必要がある。
けれども、それをやってのけれる人間は至極少ない。
自分というやつがどこか、外から措定されるものだと思っているのと、自分という身近すぎる存在故に見逃していることが多いことを誰もが気づいていない。
そんな感じに外を理解することも、ままならぬのに外をまねすることは危険なことのはずだ。
そして、それをやってしまっているのが、今の日本である。
それが意味するところは、自己崩壊以外のなにものでもない。
そんな感じに、自分というやつを見ずに外を理解することなんてもってのほかのことなのだが、それが今の停滞した状況を生み出しているということを理解することがほとんどの人にはできてない。
ただ、ひたすらに外に自分を規定するもの求め続けている。
それで、自分を外の枠でゆがめて喘いでいる。
それが今の日本、日本人。
自分たちを見つめ直すことが成長することの秘訣のはずなんだけど、それを忘れ去っている。
それで、今の日本でgoogleみたいな企業が生まれないというのはいうまでもなく、わけのわからない外の枠組みばかりに気をとられているようでは、あんな破天荒な存在がうまれるはずはない。
枠を壊すことのできるのは、枠の存在を明瞭にわかってなければできないことだからだ。
今の日本のIT産業自体が「効率化」の名の下に、無意味な利益生産システムに成り下がっている故にそんな非効率なところから効率的なものが生まれるはずがない。
そして、その労働力を担うためにレイバーを作り出すために作られた教育システムのもとでその枠を壊せるような人間が生まれるはずがない。
階級の再生産をしつづけてるだけである。
今の枠組みを壊すために施されるはずの教育が今の枠組みを維持するための枠組みになっているのだから、枠を壊せるはずもない。
自分たちを知らずに、その醜態に気づくはずもない。
現場にでて初めてそれが社会なんだといわれたらそれを受け止める他ない。
そんなわけで、どんなに足掻こうが、もうすでに教育システムにのってしまった以上はそこから逃れられないのではないだろうか?
起業するにしても、そんな教育システムで教えてくれるのは、今の枠組みを維持するためのパーツの再生産のための知識だけだ。
都合のいいことしか教えてないに決まっている。
そんな中でどうやってあんなに破天荒な存在が生まれうるのか?
甚だ疑問である。
そして、教育システムが自分も見ないような国によってつくられているのだから、それが本来の国を作り上げていくような礎にならないのはいうまでもない。
新しい形の産業、企業、社会システムというやつが求められているはずなのに今だに旧態の、醜悪な社会システムで社会が停滞してるのはいうまでもなく、そして、それを改善するために形だけの、元々は自分たちがやっていたはずのことを海外から学習は、無意味なものに始終完結するのはいうまでもない。
まあ、そんな感じに自分たちの生きている国は、自分たちを見ることすらをやめた醜悪な無意識的集団犯罪の国に成り下がっているわけだ。
自分が口を糊している職がクリーンなのかと問われたら、おそらくほとんど真っ黒に血で染まったものであるのはいうまでもない。
それが、明治、戦後と西洋のいいところ、自分たちのいいところを折衷してきた国のすることなのか甚だ疑問なのだが、それが自分たちの姿だということをわすれてはならない。
社会全体、国としても成り立たなくなっているのにどうして、googleみたいな革新的な企業がこの国に芽生えるのだろうか?
至極単純にだれもが自分を見なくなった割に、自分のことしか興味ないような矛盾にみちた状態だからでしょ?
大人が若いのをみて酷いというけれど、自分たちだって十分に酷い。
そんなのにも気づかずに生きているのが今の日本人。
究極的には、今の再生産的な非生産的なシステムが動いてるのは、能がないやつが食うためのシステムであるはずのに、ほとんどの人間がそれを当てに暮らしているという事実が今のこの国を苦しめている。
能がないことを前提にすべての人間を同等に扱ってしまったこの国の今の教育が、今後のこの国をおとしめる。
そして、崩壊はまだ序曲にすぎない。
悉く、最低な国に生まれてしまったものだと思う。
文化も、人も、金も、よくもわからない、野性的な連中に食われていくというのをゆびをくわえてみるのか?
ただ、至極単純にいえることは、自分をみることを再びやるだけのこと。
そこに解放への回答があるように思う。
解放への戦火の口火をきっていい?
切ったら一気に崩れるよ?
それが僕の命題だ。