自分はまちがっていないのだ、正しいのだと思いが強いと、過去をねじ曲げたり、過去の自分を批判したり,他人を批判したりと、今の状態が正しいといった具合に調整しようとする。けれども、その試みはたいがい後になってから何の役割も果たさなかった事が明らかになる。過去の自分を批判して、あれをしなければよかっただとか、こうしていればなんてことを言う事は結局、今を正当化したい一心なのかもしれない。必死にあれやこれや考えるのだけど、なにも生産性はうまれず、今やっていることが刹那的であったりすることから目を背けさせ、何にも行動してない状態と等しいことが多々在るのではないかと思う。
常に自分は正しいと思いは僕は人一倍強かったと思う。けれども、正しい、正しくないということは、自分の内部宇宙、外部宇宙の前では瑣末な問題にすぎないということを感じ、そんなことは気にする必要はまったくないように思えるようになった。今でもこういったことに捕われることはあるけれども、すぐにそれに気付いて捕われていた自分を解放できるようになりはじめてる。それだけじゃなく、余計なストレスがなくなったのではないかと思う。他者のありようにストレスを感じたり、他者の行動が自分に与える影響がきにくわなかったり、自分の過去がトラウマになったりといったことが、些細なことであり、自分の可能性の前には矮小な存在でしかないということを思うようになったから、こういったストレスを感じる事が少なくなったのではないかと思う。自分が正しい方が、ストレスが少ないように思えるような気もするが、それをするために様々なものを生け贄に据えなければならないということがある。本当のありようからほど遠いような事実を事実と主張してみたり、完全否定してみたり、どうにもならないことをどうにかできるようにふるまってみたり、今をいきずに過去の遺産を食いつぶして、やっとのことで正当化という行為は成り立つのではないかと思う。様々なところに理由を求めて、それがもっともらしいのだけど、直感的にはまちがっているという感覚が在るが故にそんなに心地がいいものではない。それゆえに、どんなに努力をしようと正当化は、自分に負しか残さない。
どんなに自分が正しいとおもっていても、結局は同時にまちがっているということを自覚しているわけだから、どんなに足掻こうが変わる事のない事実であり、いろいろな理由で正当化をしたところで、正当化のプロセスで使った方法がいずれははねかえってくる。畢竟、瑣末な問題、過去の問題をありのままうけいれることが一番メンタル的に楽だということなのだろう。そして、そこから新しい道を開く事も可能なのではないかと思う。下手な否定は、すべて自分に帰ってくる。それが幸せのためであっても、不幸を呼ぶものとなりうる。天に吐いたつばは自分に帰ってくる。そんな言葉を知り合いのブログでみたけれども、何らかの形で自分の道徳に反するようなものは帰ってくる。それは、自分が正しくある為にした行動であっても、御天道様は見ている、少しでも自分が落ち目を感じるようなことがあればそれはすべて自分に帰ってくる。そんな感じに、自分がしてきたことを考えると、やはりもっと愛をもたなければならない気がする。