人生ってなんだろうかと考えることは最近増えている。それは、人生の岐路に立たされている所為もあるのだろうけど、自分に起きていることが自分にとっては苦痛でしかなく、なすことがなにもないように感じているからなのだろうか。なんだかんだで、その苦境というものを冷静に考えてみると大したことではなく、ただのうたかたの夢が如し流れていくものでしかない。それをどんなに逆立ちして、それに捕われて考えても、結局はそのことから離れられなくなるだけで、何も無い。未来も過去も色々思う所があるけれども、今があるわけだ。悩み、不安、恐怖を感じたときに色々と考えて、その状況というやつを必死に理解しようとしているのかもしれないけど、経験やらの頭の中身から解答を得ようと思ってもなにも得るものは少ない。そんな感じに色々と思考を巡らすのもいいけれども、その事が自分を苦しめるなら、それを辞める事が良いのではないかと思う。自分で、自分の置かれてる状態というのを常に自分のありたいように自分で構築しているにすぎない。自分の五感を使って、感じたものプラス自分の頭で状況を作り上げている。それがどんなに愚かなことでも、自分は無意識にそれを行う。自分の最大の敵は自分だなんて、良く言われるけど、結局そうなのだ。そして、同時に自分の最強で、最大の味方は自分なのだ。それは、どんな状況でも、自分がコントロールしているからだ。自分の気持ち一つで、どんなものも変わりうる。一生懸命、自分を良い方向に持って行きたいなら自分をそういう方向にもっていけばいい。だけど、結局,最大の敵が自分だという事が利いてくる。自分で、自分を苦しめる。そんな、自分が自分を縛り付けているという事実に気付くと、馬鹿げていることに気付く。だけれども、なかなか落ち込んだときだとか、恐怖しているときというのは、なかなかそれに気付けない。それに気付けるようになりたい。
なにか、自分というやつが常に自分を蝕んでいるように思う。何かが上手く行かないときに外部に理由を求める事は愚かしいようにもおもう。外因はあるにしてもその状況をそういう風に考えるのは自分だからだ。自分には、自分をコントロールすることがゆるされている。けれども、自分に捕われて、気付けばいつもの嫌悪に陥る。
前置きが長くなったが、自分というものの毒にも薬にもなる特性というやつを知っていると人生がいろいろと開けてくるのではないかと思う。結局、これも宗教やら哲学やら自己啓発やらで散々研究、やりつくされている議論だし、ある程度のことは過去の先人が残してくれている。けれども、それを知らぬままにいきていくという事が多い。なんだろうか、自分というものが知っていることが全てであるように感じた方が気が楽であるからなんだろうけど、でも知っているということは同時に何を知らないかとをしっていること何ではないかと思う。その相反するものがせめぎあう所に人の知識は存在しているようにも思う。なかなか、難しい。生きるということは、知る事、経験すること、仕事する事、行動する事、つくり出す事。。そんな感じに生きると言うことが定義できるようにも思うけど、今の時代、それが出来る人間がどれだけいるのか、時たま疑問に思う事が在る。レールがきっちりしかれていて、なおかつそれに従って行きて行くってこtが美徳だとされる風潮が強いようにも思う。一律の教育にはじまり、仕事、定年後など理想とされる雛形があって、それも時系列的に固い縛りの上に存在する。確かにそのレールの上を行く事は、生きる事につながりうるけれども、そのまま行く事には落とし穴が在るのではないかと思う。人は、生きる事が運命付けられているけども、気が付けが機械とほぼ同じように扱われている状況が生まれているのではないかと思う。どんどん、その傾向は強くなって、政府が出す法案や税制がそれを物語っている。どこか、人間性が欠如した社会となっている。けれども中の人は人間である。人間臭いものがどこか欠落している状況がうまれているのにそれが当然かのように扱われるている。レールのままいくということは、その機械的に扱われる事を選んでいるのではないかと思う。ただ、そこに自分というやつを持って、仕事に取り組んで、それなりの人生的な意味合いを見出せるのであれば、まったく別物となりうる。その紙一重のところに人生を生きるか、機械としていきるかの分かれ道が在るように思えてならない。なにがなんでも一定の年齢に達したら、枠組みに従わなければならないという仕組みは人が人として生きるための何かを失わせているようにも思える。けれども、それが今の社会なら仕方が無いことだとうけいれるしかないのか?
人は、規律の中に暮らす。どんなところに居ようと規律に縛られる。その規律故に、自由ではないのかと言ったらそうではない。その規律の中でも自由はある。自分の中に選択し、行動し、そして何を思うのかという自由がある。どこにでも自由がある。けれどもそれを外部に求めたら自由なんてない。自分の無限なる宇宙を知らなければ、それは存在しえない。自由というものを考えると権利だとかを主張することだと言う人があるかあるかもしれないが、結局そんなものは自分自身を社会に縛り付けてるだけで、自由なんかじゃない。自由を求めるならば、自分の中に存在する宇宙を知り、見つめ、自由を知る事だ。結局、どんな状況でも自分は自由なのだ。
人との出合いというのも一期一会で、それに何を見出すかは自由である。そして、それならば良いものだけを選び自分に残せばいい。いつかは、消え行くもの。ものも人も消える。それを理解した上で、いいもの、良い思い出だけを残せばいいのではないかと思う。嫌なものもあるけれども、それは忘れる、水に流すなどすべきじゃないか。自分にはまだまだできないけど、いつかは良いものだけを選び取れるようにしたい。自分で自分のあり方を選び取れるのだから。わざわざ自分を苦しめる方向に選び取らなくても良いんじゃないかと思う。いつかは心がその余計な負の感情を起こさずに、良い感情だけで、愛を持って人と接しられるようになりたい。事前、事後に関わらずだ。自分は自由だ。
何時の時代も人は自由だ。そして、無限の可能性を持つ。
その簡単なことに気付ない、感情に捕われて忘れてしまうなど、人はそれで苦しむけど、自由であることに気付けばすぐに良い方向にいける。
社会にはいろいろな問題があるけども、自分の自分なりのあり方で在り続けたい。