今日は、とある所でとあることをしてきた。
感想としては、ふーん、なるほど、世界ってやっぱり狭いのかもなと思った。
しかしながら、流れが存在してるようで存在してないところだったことにショックを隠しきれない。なんとも、嘆かわしきかな。世界は回ってるのにどうしてそこは流れがとまってるのだろうか。時代が変わり、世界の激流の中でそこだけが流れがとまっているような、不思議な感覚を覚えた。このままでは、本当にまずいだろうな。流れる水は腐らない。水は様々な形になりうる。そんな世界で、澱み、腐り、一つの形に留まり続ける水があった。そんなことで世界と渡りあえるのだろうか、世界の激流の中でやっていけるのだろうか?
危険信号の灯った憂国で、僕はただ、その憂国の行き先を傍観者として眺め続けるのだろうか?それとも21世紀ルネサンスを起こすのか?我々が忘れてしまったものは大きく、それを消費し続けてることに無関心でいる。それでいいのだろうか?凝り固まった頭で考え続けることすらもやめてしまったかのような流れの中で僕は窒息するのか?それとも潮流を作り出すのか?
満たされない空虚な気持ちと満たさないといけないという焦燥感。そんなどうにもならない気持ちはどうでもよくなってしまった。そこにはやはり戦い続けなければならないということだ。
時代が変わって、流れが変わる。そして、人もまた移ろいで行く。僕はそんな移ろいで行く郡の中で何を思い。何を考えるのか。。
すべてを消費し続ける社会に対する解答として、ものをつくる社会への展望。それは現実と呼ばれた仮想空間で行われる。そのトリガーに指を掛ける。徹底した抗戦の中へ引き込まれる。だが、今やらずにしていつやるのだろうか。現実と仮想の架け橋。人間の外部記憶。神の財産目録。それが現実になるかわからない。だが、もう物思いに耽る時ではない。行こうか諸君、檄鉄を起こせ!!