久しぶりにブログを書こうと思う。
あまり、ブログというものの適切な使い方というやつを考えていて、ただの日記、雑記帳として使うことをためらっていたから、気が進まなかった。
ただ、ふと思った事は、極端に本当にこれが正しいのかという問いを続けていて、それで書く事をやめることはただしいことなのかということだった。
世の中は何かとつけて”適切”なものというのが要求されるわけなのだが、大抵においてその”適切”なものというのは結局のところ正しいのか、間違っているのか明確に存在しない。
時、場所、国、民族、集団、人によって基準が違うし、場合によっては、自分自身の中でのもの考え方によっても正しいと思っていたり、違うなとおもっていたりするわけだ。
結局、何かに白黒をつけることはできないわけだ。白黒を付けようとしたところで一元論になるだけで、本来あるはずの側面が消え伏せる。
どちらかを立てれば、自ずと消えるものが存在する。
どちらかだと完全に断定して極端に偏ったものの見方なのかもしれない。
人間が作ったものの胡散臭さというものが大学入って以来ずっと脳裏から離れなかった。
自分が大学入学と同時に工学の世界と距離を置き、人の営みとしての学問というものを捉え始め、人の可能性と限界を考えはじめて以来、人の作りしものの絶対性の不在と人の作りしものへの絶対性の存在への信仰が同時に存在しパラドックスを起こしている事を感じはじめた。
境界線の存在しない世界に白と黒でまっぷたつにして、自分の思う白が全てだと思う、そんな片側が存在してるんだけど、存在してないとされる極端な世界。
理論と言う言葉で片つけようとするがあまりに非人間的に成り下がった世界。
そんな世界しかないようで気持ち悪かった。
ありのままを受け入れ、そして、白と黒が均衡を保つ世界、禅、東洋的なものの見方。
水のように一時の感情にとらわれないもの。
ブルース・リー、禅、東洋について学んでいって、それが本来のあるべき姿であると思うようになって、その胡散臭さと共に歩めるようになった。
そしてものつくりへの礎の一つを作り上げられた。