たぶん、僕自身、答えをみつけて自分の抱える問題への対策がわかって余裕ができたのだとおもう。2ヶ月間ずっと、引きずっている問題については、今もなお答えを出す事ができないでいるけど、その事について書きたいと思う。まあ、丁度2ヶ月になるわけだな。あの出来事から。
僕自身、自分の小さな見栄のために、意地を張り続け、見方を変える事もなかったし、その上、彼女と別れた理由を、相手に求めようとした。その試みは、相手の乗り換えの早さで正当化できてしまっていたために、自分の落ち度というものをまったく見なくなってしまった。相手が浮気をしたということを僕は主張してきたわけだけど、別れた後の彼女の行動と新しい男をつくるという結果が、それが正しいのではないかという錯覚を植え付けた。結果としては、どうにもこうにも行かない結果になったし、どうも腑に落ちない状態になった。何もない相手と付き合うという事はないだろうという先入観があったということだろうか。それゆえにますます浮気だったという疑いが強くなっていったのだろう。その上に、付き合い始めるのも早かったこともそれを増長した。まあ、そんな感じに浮気であると思い込むことを続けて来た。
結局、別れる原因になったのは、些細なことから始まった行き違いだったのではないかとおもう。行き違いに気付くことはまったくなく、すれ違いがますます酷くなり、結果として、冷たくされ、それで他の男と一緒にいるところを目撃したり、相手のブログの内容から浮気ではないかという疑惑をもってしまい、その結果として浮気だと断定した行動をとって、別れるに至ったのではないかと思う。僕自身の気付きが無かった所為で事態は悪化し、別れるまでに至った。それは、今となっては仕方がないことだけれども、どうも心に突っかかることがある。浮気だと疑ってしまったことを謝る事が出来なかったという事だと思う。一度、そのことを謝ろうとしたことがあったが、復縁を迫ろうという下心があった所為もあって、復縁はありえないということを強調されてしまって、憤慨して、相手への苦情を言って謝るということがどこかへ消えてしまった。その機会を失ってからは、もう浮気であるということを意固地に主張するしかないと心に決めていた節がある。
そんな感じに自分の落ち度の所為なのに相手に理由を求め完全に相手を傷つけてしまってる。終わった事で今だに尾をひいているのは、よくはないだろう。このことだけでもどうにか許しを乞いたいという思いが強い。その機会は今後ないだろうけど、公にさらしておけば、僕自身の整理が付くのかもしれないと思って記しておく。
愛について
なんだろうか、愛とは、与える事、関係する事、側にいる事なんて、ずっと思っているけど、僕には、それが常に出来ていない(出来ていなかった)と思う。側にいるだけで幸せだった。けれども、自分の都合を優先している。だから、自分が都合の悪いときは愛はないわけだ。自分中心にすえて行動をとるということは、愛はない。自分の為に行動することは大事だけど、結局のところ自分の為になることは少ない。自分のための行動で、幸せが得られるかと言ったら、実は刹那的であり、空しいものが多い。幸福感を一時的に味わってもすぐに消え行く故に空しい。だけれども、他人のために何かをするということを通して得られる達成感、幸福感は残る。刹那的に生きようと思うならば、我が儘に生きればいいし、幸福になりたいならば他人に与える事をすればいい。与えれば与えるほど帰ってくる。それが、愛なんだろう。僕は、なんだかんだで、我が儘でいる事が多い。一方、余裕が在るときだけ、愛をもって行動しようとする。つまり余裕がなければやらない、結局我が儘なのだ。それゆえに、空虚で、つまらない毎日をおくっているわけだ。刹那的にしかいきてない。それゆえに、我が儘であること、自分の都合で物事をきめる姿勢をやめて、常に愛をもって行動をすべきではないかとおもう。その事が、空虚な自分をかえてくれるのではないかとおもう。なんだろうか、結局些細な自分のつまらぬ刹那的な欲で幸福をのがしている。そして、つまらぬ価値観に惑わされている。全回の記事で書いたが、些細なことを強調することで、意味があるようなことをしてるつもりでいたのかもしれない。自分のありよう、自分の可能性を良い方向へもっていくには、慈愛が必要ではないかとおもう。些細なことを気にすることは、上記のような結果をまねくし、自分を制限する。それは我が儘は自分を制限するということだ。我が儘であるということは些細なことを気にして、刹那的なものごとに気が奪われた結果なのかもしれない。それゆえに、長期的にうまく、幸福になるために、愛をもっともって行動したい。
どんなに足掻こうが,結局自分は、無能で、無才で、無知で、無力なのではないかと思う。親も平凡だし、なにか取り柄があるかといったらない方だろう。結局、ぼくは犬生きをする一介の無法者である。それ故に、社会に居場所を求めたところで、それ相応の場所しかないわけだ。分に相応の場所が在るだけの話である。それが今の場所であり、立ち位置であり、結果である。将来の進路を考えたときに自分の在るべき姿というものは、そんなに存在せず、クリエータか、プログラマー、SE、それも下っ端としての雑用レベルの仕事がやっと与えられるだけだ。そういうわけ故に、お先は真っ暗。どう足掻いても一人で生きて行くのやっとのレベルなんだろう。そういった意味で、ぼくに今も未来も伴侶となりうる存在がいないということは不幸中の幸いなのではないかと思う。ただ、過去に側にいてくれた人が幸せを手にできるのであれば、いいのではないかと思う。そういった意味で、良い結果なのだなと思える。
自分が家庭をもつなどあり得ないし、何か成し遂げることはないのだろう。
と思う一方。
何も無いならなおいい、そこから這い上がるしかないと思う。少なくとも、このままいけば、回りが思うような結末だし、上の状況が続く事はいうまでもない。何も無いからこそ今まで色々やってのけて来た気がする。デザイン、映像、などの作品、今の立ち位置、今の些細な幸福、過去の幸福...等を手に入れられた。それは、とうてい自分が手に入れられるはずのないものだったはずだ。けれども手に入った。そのことを思うと、何も無いからこそ物事を手に入れられるように思う。少なくとも、このままの状況だと上述の未来がまっている。けれどもそんなこと、神のみぞ知る。今の時点で、駄目だということ嫌と言うほど思い知らされている。駄目という事考えるけれども、駄目なこともあるし、良い事もある。駄目である事にコンプレックスを抱くけれども、でも自分の良い点を考えると大した事ない。何もないのだ。大したことの無いものをちょっとはもっているかもしれないけど、ほんのちょっとだけ。無いものもあるけれども、何も無いと同じなんだし、変わらない。すべてのものは流転する。それゆえにもっていたとしても大差ない。ただ、あるものは自分である。いい、悪いと切り方をされるけど、あっても微々たるもの故に、はっきりと区切りが付けられない。自分は、あるけれどもそれは定義できないものだ。そして、何より内的な宇宙そのもの故に無限に広がりと可能性を見せる。それと外的なものさしによる評価は、意味を為すのか?自分の良い点、悪い点はある、けれども些細な違いしか含まれない。それは何ももってないということと同等。相対的にみても自分の内面世界は無限で、外世界での自分の定義は無限にあるけど、認識できるのは極僅か。その相対量の差は雲泥の差があるのではないかと思う。悪い事もするし、良い事もする。どちらかいっぽうだけすることが不可能なのは、ここに所以するのかもしれない。認識の差。内面世界からすると些細な差。ただ、これを極大解釈すると、二元論にいきつく。けれども、本当にそれがあるのかといったらコンピュータは便宜上、1、0で近似してデータを扱うが、データは連続して存在する。そんな感じに世界は二元論では推し量れない。たぶん、同じだけ悪く、同じだけ良いのだ。善悪の問題は、それらのどちらを認識できたかという問題にすぎない。ということは、自分の良い面、悪い面は同等ということになる。相殺し合うし、内面世界からすると微細、つまりは意識するに値しないことなのではないかとおもう。
ただ、内面世界が如何に偉大であろうとも、それは勝手に外世界に作用して常に良い方向に導いてくれるのかといったら、そんなことはまったくない。内面世界を如何に外にだすのかである。何ももってないから這い上がる。けれども、裏には自分という存在の無視がある。自分は常に自分とともにある。それで、自分の可能性やら無限性は、つかわなければ矮小になる。しまいには、自分から自分が消え、外部のものさしでの評価をうけいれ、その差がないはずなのに、おおきな差のような幻覚をおこし、身を滅ぼす。畢竟、這い上がり続けることは、自分を維持し、自分を成長させるのに必要だ。這い上がる、努力する、行動しつづけること、そして生き続けることは、自分を健全に保つ方法なのではないかと思う。何も無いからこそそれができるのではないか。
生きながらにして、死んでいる。
そんな、空虚で苦痛な日々をすごしている。
行動をすることすらも、ままならく、どんどん衰退しているのではないかさえ思える。
自分は自由でありながら、自分に拘束される存在である。それゆえに、その拘束からぬけだせないと苦痛しかない。
結局は、自分に落ち度があって今の状況にいるわけだ。そして、それに対して自分は、自分を責め続ける。他人の所為に仕様という矮小な試みは何にも生まず、ただの破壊をもたらした。本当なら、許しをこうはず行為が、ののしりになり、そして状況を悪化させた。自分が悪い。邪悪な存在なのかもしれないということを感じるだけだ。
自分は自由である。けれども、苦痛を呼ぶことを選んでる自分がいる。そこから、抜け出す術は、見えているのに、一向にそちらに自分が選択することをしない。なぜだ?
自分の過去の良い思い出が、それを邪魔をする。
自分の過去の嫌な思い出が、それを邪魔をする。
結局、自分は生きながらにして、うたかたの苦痛を誇張し続ける。
自分はどう生きたいのか?強く、自由で、そして慈悲深く生きたいのではないのか?そんなことと、自分が自分を束縛しつづけるというジレンマ。
ジレンマは、外因を求めたがる。そして、無意味に他を傷つける。
欲にまみれてるつもりはないけど、欲がそうさせている。何もなかったようにすごしたい。他者に媚をうって生きて、何事もなかったように生きたい。幸せになりたい。お金持ちになりたい。。すべての欲が自分を蝕む。結局、刹那的なものを求め,そして、永遠なるものからほど遠い所にいる。刹那的なものを求める欲を捨て去りたい。けれども、それができずにボクは夕闇の中、佇むだけだ。
光と闇の境界線で、生きながらに死んでいる。死と同等の無価値な存在に成り下がっている。それで、ボクは行動したいという淡い願いを抱え、ただただ生きる。経験も知識もあやふやに増やしながら。
刹那じゃない、永遠を。。弱き自分には、弱さを認め、強くいきることができていない。強くそして、慈愛を、永遠を
自分の立ち位置を捨てろ。すべてを捨て去り無へ。。
人生ってなんだろうかと考えることは最近増えている。それは、人生の岐路に立たされている所為もあるのだろうけど、自分に起きていることが自分にとっては苦痛でしかなく、なすことがなにもないように感じているからなのだろうか。なんだかんだで、その苦境というものを冷静に考えてみると大したことではなく、ただのうたかたの夢が如し流れていくものでしかない。それをどんなに逆立ちして、それに捕われて考えても、結局はそのことから離れられなくなるだけで、何も無い。未来も過去も色々思う所があるけれども、今があるわけだ。悩み、不安、恐怖を感じたときに色々と考えて、その状況というやつを必死に理解しようとしているのかもしれないけど、経験やらの頭の中身から解答を得ようと思ってもなにも得るものは少ない。そんな感じに色々と思考を巡らすのもいいけれども、その事が自分を苦しめるなら、それを辞める事が良いのではないかと思う。自分で、自分の置かれてる状態というのを常に自分のありたいように自分で構築しているにすぎない。自分の五感を使って、感じたものプラス自分の頭で状況を作り上げている。それがどんなに愚かなことでも、自分は無意識にそれを行う。自分の最大の敵は自分だなんて、良く言われるけど、結局そうなのだ。そして、同時に自分の最強で、最大の味方は自分なのだ。それは、どんな状況でも、自分がコントロールしているからだ。自分の気持ち一つで、どんなものも変わりうる。一生懸命、自分を良い方向に持って行きたいなら自分をそういう方向にもっていけばいい。だけど、結局,最大の敵が自分だという事が利いてくる。自分で、自分を苦しめる。そんな、自分が自分を縛り付けているという事実に気付くと、馬鹿げていることに気付く。だけれども、なかなか落ち込んだときだとか、恐怖しているときというのは、なかなかそれに気付けない。それに気付けるようになりたい。
なにか、自分というやつが常に自分を蝕んでいるように思う。何かが上手く行かないときに外部に理由を求める事は愚かしいようにもおもう。外因はあるにしてもその状況をそういう風に考えるのは自分だからだ。自分には、自分をコントロールすることがゆるされている。けれども、自分に捕われて、気付けばいつもの嫌悪に陥る。
前置きが長くなったが、自分というものの毒にも薬にもなる特性というやつを知っていると人生がいろいろと開けてくるのではないかと思う。結局、これも宗教やら哲学やら自己啓発やらで散々研究、やりつくされている議論だし、ある程度のことは過去の先人が残してくれている。けれども、それを知らぬままにいきていくという事が多い。なんだろうか、自分というものが知っていることが全てであるように感じた方が気が楽であるからなんだろうけど、でも知っているということは同時に何を知らないかとをしっていること何ではないかと思う。その相反するものがせめぎあう所に人の知識は存在しているようにも思う。なかなか、難しい。生きるということは、知る事、経験すること、仕事する事、行動する事、つくり出す事。。そんな感じに生きると言うことが定義できるようにも思うけど、今の時代、それが出来る人間がどれだけいるのか、時たま疑問に思う事が在る。レールがきっちりしかれていて、なおかつそれに従って行きて行くってこtが美徳だとされる風潮が強いようにも思う。一律の教育にはじまり、仕事、定年後など理想とされる雛形があって、それも時系列的に固い縛りの上に存在する。確かにそのレールの上を行く事は、生きる事につながりうるけれども、そのまま行く事には落とし穴が在るのではないかと思う。人は、生きる事が運命付けられているけども、気が付けが機械とほぼ同じように扱われている状況が生まれているのではないかと思う。どんどん、その傾向は強くなって、政府が出す法案や税制がそれを物語っている。どこか、人間性が欠如した社会となっている。けれども中の人は人間である。人間臭いものがどこか欠落している状況がうまれているのにそれが当然かのように扱われるている。レールのままいくということは、その機械的に扱われる事を選んでいるのではないかと思う。ただ、そこに自分というやつを持って、仕事に取り組んで、それなりの人生的な意味合いを見出せるのであれば、まったく別物となりうる。その紙一重のところに人生を生きるか、機械としていきるかの分かれ道が在るように思えてならない。なにがなんでも一定の年齢に達したら、枠組みに従わなければならないという仕組みは人が人として生きるための何かを失わせているようにも思える。けれども、それが今の社会なら仕方が無いことだとうけいれるしかないのか?
人は、規律の中に暮らす。どんなところに居ようと規律に縛られる。その規律故に、自由ではないのかと言ったらそうではない。その規律の中でも自由はある。自分の中に選択し、行動し、そして何を思うのかという自由がある。どこにでも自由がある。けれどもそれを外部に求めたら自由なんてない。自分の無限なる宇宙を知らなければ、それは存在しえない。自由というものを考えると権利だとかを主張することだと言う人があるかあるかもしれないが、結局そんなものは自分自身を社会に縛り付けてるだけで、自由なんかじゃない。自由を求めるならば、自分の中に存在する宇宙を知り、見つめ、自由を知る事だ。結局、どんな状況でも自分は自由なのだ。
人との出合いというのも一期一会で、それに何を見出すかは自由である。そして、それならば良いものだけを選び自分に残せばいい。いつかは、消え行くもの。ものも人も消える。それを理解した上で、いいもの、良い思い出だけを残せばいいのではないかと思う。嫌なものもあるけれども、それは忘れる、水に流すなどすべきじゃないか。自分にはまだまだできないけど、いつかは良いものだけを選び取れるようにしたい。自分で自分のあり方を選び取れるのだから。わざわざ自分を苦しめる方向に選び取らなくても良いんじゃないかと思う。いつかは心がその余計な負の感情を起こさずに、良い感情だけで、愛を持って人と接しられるようになりたい。事前、事後に関わらずだ。自分は自由だ。
何時の時代も人は自由だ。そして、無限の可能性を持つ。
その簡単なことに気付ない、感情に捕われて忘れてしまうなど、人はそれで苦しむけど、自由であることに気付けばすぐに良い方向にいける。
社会にはいろいろな問題があるけども、自分の自分なりのあり方で在り続けたい。
既存技術の水平思考という言葉を、ユリイカのnintendo特集で知った訳だけど、それを実践する任天堂が世に繰り出したwiiという次世代機がそれを完全に体現していると思った。散々、技術的に他の次世代機に比べて劣っているということをバッシングされていたけど、技術という面に関してはそれは否定できない事実ではあるけれでも、新しいゲームの可能性を提示したという意味では真の次世代ゲーム機である。他の次世代機は本当に技術的にすばらしいけれども、実は、PCでゲームをした方が技術的レベルの高いゲームができる。そういったことを考えると、今の新世代ゲーム機の新技術を詠うものは陳腐なものではないかとおもってしまうわけだ。専用機で開発すれば、ゲーム分野において時代をリードできるようなものができたのはPS2までは無いかと思う。専用機が魅力的だったのは、技術的に優れていたのはもう一時代前の話だと思う。それで、任天堂が出した答えは、技術を切り捨てて、コストを押さえ、独創的な要素によって、他とは違う路線を切り出した。その結果として、非常にゲーム性があるものとなった。なんでもかんでもあたらしいものがいいのかというと、多分違うということになるんだろう。新しくても使いこなせてないものは、意味がないということがPS3、Xbox360を見るとよくわかる。ただ奇麗なだけなものというのは,確かにいいがゲームとしてはものたりない。だんだん慣れて来て飽きてくる。普遍性というものを考えると、奇麗なだけで極端なものはだめだ。バランスが取れてるものこそがいい。ゲーム性だとか、物語性を犠牲にして画面の奇麗さだけを要求するようになって、陳腐化していったといことなんだろうか。どこか、勘違いが生んだ結果なんだろうとおもう。技術がすばらしいというのはわかるけど、バランスの欠いたものは結局普遍性がない。そして、それは長続きしない。そんなものがはびこっているのが現代なのかと思うと、見え隠れする技術だけの社会というものが面白いのかと言ったら、自己満足でしかなく、そんなのは空しいだけだとおもう。それが、どんな分野でもいえそうだ。分野を細切りにして、それだけで至上だという考え方は、どんなに愚かなことかということを改めておもった。
しかし、wiiは次世代の日本の希望だと思えた。そして、そうしたものと今の技術至上の流れとの戦いがこれから繰り広げられるような気がする。