ものをつくる時、どんなに考え抜かれたとしても、我々は自分の背景だとか、人間関係だとか、精神状態だとか、そういった我々を定義、措定するコンテキストから逃れることができない。それでいて、なおこれらについて無自覚で、無知で、無頓着である。自分という存在の存在がどのようなものなのか、自分自身わからないし、まして、他人もわからない。あるのは多少の理解程度である。我々の乗っているコンテキストは完全に理解することができないが、それから束縛をうけている。つまりは、影響を知らず知らずのうちにうけてしまっているということなのではないだろうか。
あるコンテキストの上で補完されて始めて理解、鑑賞に耐えられる作品、コンテキストフリーに理解、鑑賞に耐えられる作品の二つの種類の作品が存在しているのではないだろうかとおもった。結局は、前者も後者は同一のものなのだが、ある側面においてことなっていると感じている。それは普遍性の有無である。そういった意味では普遍という意味であまねくゆきわたっているコンテクストが存在しているのだが、この普遍性の存在がことを厄介にしっていると感じる。とりあえず、それを置いておくとし、コンテキストが意識されようとされまいと我々はコンテキストの罠にはまっているのかもしれない。自分が面白いと感じることは自分のコンテキストに補完されて面白いと感じているのかもしれない。コンテクストを剥奪された時に、あるいは別のコンテキストを持つ人間によって鑑賞されたときにその作品が同じ強さをもつのだろうか?逆にコンテキストが与えられた場合、あるいはもっと幅広い背景をもつ人間によって鑑賞されたらどうなるのだろう?作品がもっと強い存在、あるいは弱い存在、両方の可能性を内包しているようにも感じる。人によって感じ方が違うのはこの辺によるだろうし、自己満足的な作品(観測者の視点からそのように見えるもの)のメカニズム、あるはマスターピースと呼ばれる物の評価というのはこういったコンテキストの存在が多いに関与しているのだろう。
それで、先ほど出てきた普遍性の問題に映りたいと思う。上記で示した通りに、コンテキストによって作品の受け取られ方が多いに変わってくる。一部にうけて、大半から見向きもされぬ作品、大半にうけて、一部から気持ち悪いと感じれる作品。そういったものに関するものがコンテキストの存在なのではないだろうかというのが僕の議論なわけだが、ここからさらに議論をこれを意識していかに多くの人間に認められるものをつくる方向性にもっていくのか考えていきたい。もしかすると、ある限られた中で認められる作品についての議論にも関係するかもしれない。僕が考えるに、おそらく普遍性というものが重要になってくるのではないだろうかとかんじるわけだ。遍く概念、こそがより広く一般的に受け入れられるための要素なのではないだろうか。ある概念についてそれが本当に普遍的なものなのか、これが問題になるのではないだろうか?ただ、普遍的とはなにか?そこからいかにそれを消化するのか?これらの問題は非常に難しい。とりあえずは問いを発するまでにして今日の議論を終わりにしたい。