押すことができたのか、これから押すのかわからねど、着実に変えられるものを変える。
ニコレット導入で、禁煙3日目。
効率化、目指して、日々、勉強量を増やしてる。
そして、アウトプットをする。
あとは、自分の感情が何者であるのか、観察するということ。
悪しき習慣の排除。
一体、これらがどれくらい習慣として残るのだろうか。
社会的地位だとか、お金だとか、そういったものが必要だと思うけど、執着すると碌なことがない。
これは、間違いない。
学生と社会人で大差あるというけれども、そんなに違いがあるなら、とうの昔に偉人が山のようにいるはず。
そんなこともない。
会社にまもられてるか、学校に守られているかの違い。
まあ、恨み節なんだろうけど。
自由、公、責任、これらが丁度いいくらいに混ざりあうスイートスポットが見えて来ている。
そこは、自分で、勝ち取る。
たぶん、それは自分でしか、勝ち取れない。
与えられたものがなんであれ、それしかできないのであれば、生きるためにそれをするとか、社会の歯車だとか、そんな御託ならべて誤摩化して、人としていきてないだけ。
人の本質は、どこにあるのか?
人が人足り得るのは、ものをつくりだせるということ。
この点が他の生物と違う。
自らの複製を作り出すことはできてもそれ以外のものを作ることはほぼない。
遺伝子の表現系として、人工物があるのかもしれないが、もしそうだとしてもおそろしく複雑で、それを表現しきれていないではないか?
まだまだ、作り出せる。
巣だとか、子孫だとか、そういったものと違ったものつくり。
ものをつくりだすことに本質があるとすれば、ものをつくりだせないというのは、生きることを否定してることではないか?
まあ、子づくりに励んでれば、作ったことになるのか?
サービスにせよ、工業物にせよ、そこには、ものが作り出されている。
それを意図的に作り出せるか、それとも誰かの意図のもとに作り出すのか。
その両者は同じようでまったく違う。
前者は、生物本能以外のところでのものつくり。
後者は、生物本能でのものつくり。
生きた証を刻むなんて、よくいうけど、芸術がそうであるようにすべてのものがそうである。
すべてはなんらかの表現。
それが真であるならば、自らの手でものを作りたいじゃないか?
人生こそ、表現ならば、表現をやらないなんて嘘だ。
金?そんなもん、後からついてくる。
地位?そんなもん、後からついてくる。
だからなんだっていうんだ?
必死に、社会にしがみついて、これが俺だって、働くことが証明してくれるって?
歯車になったつもりで、消耗すらされないで、なにをいうのだろうか?
結局、歯車にすらなれてないのではないか?
正しい正しくないと人はいうけど、そんなもん関係ねえ。
あるのは自分。
自分がどうあるか。
会社にいたって、ものつくってるやつは輝けるし、いなくたって、もの作ってるのは輝いてる。
歯車だ、ルーチンワークだ、ということを主張する、あるいは本当にそう扱おうとするやつがいるとすれば、犬生きしてる。
これは間違いない。
どんなところにも創造性の可能性はある。
だから、ただはじめればいい。
創造的に中庸であればいい。
ただ、ものを作り続ければいい。
“The person who knows HOW will always have a job.
The person who knows WHY will always be his boss"
by Alanis Morissette
ジオブリーダーズの引用より引用