楽しいという感覚がどうもいまひとつ、悦楽的な意味合いでしか理解できてないのかもしれない。肉欲的に、煙草、マスターベーション、食べ物を求めるだけが楽しいと思っているのではないか?そんな気がする。その刹那的な快楽は、幻影を見せる。これをすれば、すれべノープロブレムだと。けど、本当にそうなのだろうか?時に、張りつめた精神を癒すために、いいだろう。けど、それがすべてになることが多い。それを求めるために、本来、手段であるはずものが、目的と化して、ただの犬生きになる。
そうだとして、犬生きじゃない生き方を求めることはどういうことなのか?もう一つの苦痛を伴う楽しむということにあるのではないかと思う。なにかを勉強する、作る、生産的なことをするということにはなんらかの刹那的な悦楽はいっさいない。だけど、その積み重ねが楽しみに変わる。だんだんと形作られ、形になった瞬間に、達成感を味わう。あるいはその最中に自分の感覚がどんなものであるのかということが見える。感覚が研ぎすまされて、自分が何を求めているのかみえてくる。そして、自分が何を考えているのかがみえてくる。ただ、その理想を追求するには、自分は無力で、実現できない。だから、ただひたすらに積み重ねていく。その積み重ねで、少しずつ、己の望むものが形づくられていく。そこには、自分という存在と自然という存在がせめぎあって、無常というものを明らかにし、そしてその中での自己の意味を紡ぎ出す。たぶん、欲だとか、無知(無関心)とか、怒りとか、そういったものを通り越したところに自己を発見できる。感覚としてあるのだけど、そういった感情がない状態がそこにはある。失敗だとか恐怖だとかもない。ただ、やることだけに意義を感じてる。そんな状況に心がときめいている自分がいる。
この境地になるためには、たぶん自分の出し切れるものを全部ださないとだめだ。中途半端にやるんじゃなくて、他のことをいっさい気にもとめず、ただ集中する。そのことで様々なものが切り捨てられるが、そこに本当の自分が見えるはず。全力でやる。何事も全力でやらなければ意味ない。先の刹那的な快楽に逃げるのは、全力でやってないからではないか。
常に全力でやれるよう精進したい。