与えられたものに満足できない。
これがあったらいい。
誰かそばにいてくれたらどんなにいいか。
もっと良い場所、もっと良い環境があるんじゃないか。。
そんなことを思うことがしばしばある。
しかし、本当にそういう願望が実現したとして、本当に自分は満足して、至福の時を味わうことがあるのだろうか?
それは、一時満たされた感じを味わうことになるだろうが、その後は、そんなことはないのではないかということだ。
再び、他の人、もの、場所へのうらやむ心が、もっと求めるようになる。
そして、限りなく、求め続けていくのではないか?
気がつけば、恋人がいたりして、それを得るまでにものすごく幸せになれるという予感を抱いていたりするのだが、いざそれが現実となるともっと幸せになれるのではないか、あるいは、もっといい人がいるのではないかという気が起こってくる。
そして、その現状が前の自分が望んでいたはずなのに、ものたりなくなる。
他のものでいえば、欲しいものをやっとのことで手に入れて、それで満足するのかといったら、そんなことはない。
再び、他のものが欲しくなるだけではないだろうか?
欲しいものがある状態と手に入れた状態では、確かに後者の方がいいように思える。
しかし、前者も後者も大差ない。
同じだけ、他への欲求というものを持ち続けている。
結果として、今の現状への欲求不満となる。
どんなにめぐまれようと自分がその状況より、先のものへ思いをはせ、結局、今の自分をみることなしに、求めることばかりしてしまう。
そんなことを繰り返す。
恋人ができようと、欲しいものが手にはいろうと、なりたいものになろうと、結局、前の自分が望んでいたものであって、それを手にした自分と別ものである。
その結果、満足なんてすることない。
そんな他に自分の欲求のはけ口を見つけようとする試みは大抵うまく行くはずがない。
今の自分を見ないで、未来の自分の状態に幸福を見ようとするのは、人間の性なのか?
それは、わからない。
けど、今の自分をみるということほど難しいことはない。
何かを求めて、満足しようとする行為はなにもうみやしない。
それに向かって行動するという意味では良いのかもしれないが、なにか満足しようと、至福の時を得ようとして、やって意味をなすことはない。
望んだ自分の状態にはなれない。
未来の自分への期待と同じだけ、時間を費やすのが、過去を悔やむ行為だ。
過去を悔やんでも代わりはしない。
過去から学ぶことは重要であっても、過去への悔やみは何も生まれない。
なにもない。
過去は、もう過ぎ去ってしまって、どうにかできるものでない。
それを分かっていながら、やってしまう。
こうして、今という時間を消費して、再び、これを悔やむ。
それの繰り返し。
未来にしろ、過去にしろ、それに対しての欲求は、なにも生まず、繰り返しを生み、今を浪費する。
じゃあ、本当に満たされた自分になるためにはどうするべきか、今しかない。
今に満足するということだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
それだけで、与えられたものを最大限に生かすだけ。
その生き方こそがいいのではないか。
どんなに何か、望んでも、手に入れた途端に輝きを失う。
それならば、今に輝きをみつけようではないか。