世の中、罠だらけだ。
何をするのに、罠にはまる。
教育システムで教えてくれることがどれだけ、人が生きるのに役にたつのか?
教えてくれる知識は、すばらしい。
けど、教えてくれる知恵はどうだろうか?
右向け右の兵隊となんら代わりない方法論ではないか?
誰もがそれを疑わない。
同じ方法で教えられ、同じようなことをして、その中での善し悪しで人の善し悪しが決まっていない?
学歴といい、勤めている会社のレベルといい、ある種の同じ方法論上での議論でしかなく、本当に生きていく上で強くあれるのか?
終身雇用だとか、そういったシステムがあれば、強くある必要はない。
それはいうまでもない。
けど、ただ食っていくためだけに、このシステムに乗っている人間が多くいるわけだけど、それって、体のいい奴隷じゃないかと思うことが多い。
みんなして、同じようなことして、同じだけの給料貰って、微々たる違いで優越感に浸って、そして、社会的に優越していると思っている。
不思議なことに、どんなに足掻いてもそのシステムにはまっているのが美徳みたいな風潮が強い。
それが、教育の与えた智慧ならば仕方ないのかもしれない。
僕にとってはそれが罠にしか思えない。
ビートたけしが彼の著作の中で、大学は食えないやつが食えるようになるためのシステムとばっさり切り捨てていた。
そのことを思うに、その色合いは否定できない。
けど、この国の高度成長を支えて来た方々が、大学を出ていたのかというとそうじゃない。
大学出身=エリートという構図がなんらかの形で存在していたはずなのだが、どこかそんなのはなくなり、ただの労働者の生産システムに成り下がっている。
エリートというものを考えてみるとやはり、ひとつは社会を引っ張っていくような人だということだ。
大いなる力には、それなりの責任がつきまとう。
教育で得た、知識、智慧が世界的に見れば大いなる力なはずである。
まあ、すくなくとも世界の全人口の数パーセントの恵まれ立場にいる。
それが意味するのは、それなりの責任がつきまとっているということではないか?
私腹を肥やすだけが人生ではなく、もう少し大きなものがあるのではないかと思う。
そこに、先に大義だとか、そういった厳めしい何かがあるわけじゃなく、人としてそれなりの強さがなければならないのではないかと思うことがある。
まあ、強さに関しては僕には無縁といっていいほど、僕は腑抜けではあるが。
教育で与えられた智慧というものが、他者との同調し、私腹を適当に肥やせばいいというものならば、今の現状を鑑みればわからんでもないかもしれない。
大義とか、そんなものを背負いたくはない。
自分さえ良ければいいということを暗におしえこまれているのではないか?
どんなに、自分が強くありたいと願っても、それよりも楽な道が存在していて、弱い存在のままでいいという選択が可能ならば、自然とそちらにながれるのではないか?
けれども、それが意味するのは、奴隷であり、弱き存在であり、無責任なあり方なのではないかと思う。
知的労働者という言葉が出て来た。
それが意味するところは、結局のところ工業化のころの肉体的労働者となんらかわりないのではないか?
十分に頭はでかくなった。
けど、使い方は、もっと御偉い方々が決めた人々によって操作され、そしてそれに従順に従う。
それが今の罠。
単純に行ってしまえば、今の社会は、左脳的なのだ。
直線的で、論理的で、言語的。。。。
そんな直感とか、総合性とかない社会なんではないかと思う。
一人一人の力は左脳的善し悪しで判断され、そして、その使われ方も左脳的に決定される。
論理だとか、言語だとか、左脳的な要因が決めうるものがすべてで直感とか、総合的なものとか、右脳的なものは排斥される。
左脳的な要素がすべてだと言ってしまえば、たとえば、生活するのに金がいるから、金を稼がなきゃ、そうこうしているうちに定年だ、みたいな流れも納得できる。
そこには、人生を直線的にみればみるほど、そういった結論になる。
皆と一緒に私は、良い学校行って、良い会社入って、良い奥さん貰って、良い家庭を築いて、みたいなそれが人生だみたいな黄金パターンにはまるのがいい。
左脳だけをみればな。
けれども、人間が制定した論理だとか、言語だとか、機械的な要因だけが、すべてありうるのかといったら、多分、そんなことはない。
そこを超越した先に人間は神を見たし、芸術なるものを生んだり、普遍性を求めている。
右脳的なものが排斥される方向にあるのだが、それが本当なのか?
右脳と左脳を分けて、芸術と社会はまったく違うみたいな論調がくりひろげられていたりするが、それは本当に人間の本性なのか?
今の教育が左脳的な要因だけを育てるものだということを強調すると、そこには、左脳こそ人間たる要因だということを暗に刷り込まれるのではないか?
右脳的な要素に非出た人々は天才と言われるが、実際は、人間本来の力を発揮してるだけなのではないか?
絵が描けない、芸術的なものがわからない、総合力がないとか。。
そういったものは、切り捨てられた部分であり、不要だと信じられてきた。
けれども、ここ最近の脳科学を繙いてみると、そんなことはなく、両方を使うのが正解だということだ。
その方が脳が活性化するということだ。
得意不得意があるのだ。
ただ、一方の脳だけで処理しようとすれば、不得意だろうが、やらせるという無理が生じる。
そんなことをやっているのが今の社会ではないか?
左脳社会、養老先生の言葉を借りれば、脳化社会なるものではないか?
頭でっかちになるのは、左脳ばかりつかっているからではないか?
芸術の科学を学べ
科学の芸術を学べ
感覚を発達させよ。とくに見る力を学べ
すべてはすべてにつながると認識せよ
レオナルド・ダ・ヴィンチ
この言葉がすべてを物語っている。
人間存在の本性を、そして、人間があるべき姿を