普通に生きていく、そんな何気ないフレーズに憧れていた。
けど、そんなものありもしない。
変哲もないものなどない。
同じだけ似ていて、同じだけ違っている存在の錯綜体の社会があるだけ。
同じということに注目し続けていれば、必然的に差異が目につき、
違うことに目をやれば、逆に同一性が目につく。
どちらについても結局、他者は他者であり、他者は己、己は他者という境界を行ったり来たりする。
それなのに、同じことに主眼をおこうとしていた自分。
たぶん、社会システム的に日本というのは同一性を重んじるからだろう。
人並みに働いて、人並みの給料貰って、人並みの人生を送る。
そんなのが美徳だ。
それがいいと思えることが多いけど、同時に自分の中にある他人と違う存在であるということ。
誰しも、一人一人違っている。
それなのに同じ型にはまるはずがない。
人それぞれのやり方がある。
人それぞれのやり方がありつつ、同時にひな形みたいな型が同時に存在している。
孤独と恵まれた状況を行ったり来たりする。
それがアンバランスな自分という存在。
けど、そこにあるはずの自分は、社会に入ればいなくなり、抑圧され、悲鳴をあげ、存在を強調する。
社会から外れれば、孤独が顔をだしてこんにちわ。
そんなことの繰り替えを何気なく繰り返してる。
そこの繰り替えしが無意味だということに気付いていても、そこから抜け出せない。
その中間のちょうどいいところをみつけることがなかなか難しい。
ただ、極端に社会に入って同一になるのも、個を強調するのもよくはないということだけが明確に分かる。
ただ、中庸であることが長続きする秘訣だという、ブルース・リーの言葉やら、原始仏教の教えやらが頭をかすめる。
その中庸というものがどれだけ難しいものなのか噛み締める。
同時にものごとは無常であるという、常に変化し続けるということを念頭に置くと、どこか一点、中間に常に位置する必要はないのではないかとも思う。
ぶれの幅が如何にせよ、平均が中間にあれば良いのではないかなと思う。
それは、常にやってくる事象に、身を委ね、そして流れをみつけ、己をコントロールすることではないかと思う。
多分、僕が目指すところは普通であって、例外的な所なんだろうと思う。
普通を極めれば非凡になる。
東山魁夷が言っていた言葉。
たぶん、普通、平凡には多元的な意味合いがあるのではないかと思う。
さてさて、僕の平凡は平凡な平凡なのか、それとも普遍性の中の平凡なのか。。