長々と自分が思っていることをつらつらと書いてみた。(前エントリー)
自分の問題意識がどこにあるのか、少し見えたような気がする。
僕は、平和主義者ではないけども、人間が人間として生きていくことを強く望んでいる。
自分らしく、すべての人間が生きれたら良いなと思う。
欲、怒り、無知、この3つが人間を堕落させるものらしい。
どうにも、他者のこれらが気になって仕方がない。
自分もその3つの要素を常にもっていることを自覚してはいるが、他者のこれらを見つけたがっている。
それは自分はまだ大丈夫だ、だとか、自分を正当化したくて仕方がないということを言い聞かせようとしているのが手に取るようわかる。
ひどく汚れた自分のありようだ。
今、僕は、何も持っていない。
恋人も、身分も、金も、何もない。
唯一あるとしたら、欲と無知と怒りにまみれた自分だけ。
自分の存在を社会のどこかに求めた大学時代。
それが終わって、ただの身分確保のためにいる大学院。
そこで自分が、なにかを見つけられるのかと言ったらそうでもない。
ただ、自分の足であるいていくしかないということを自覚しながら、歩くことすらも拒絶してしまっている。
何かを得るために行動しようとしている自分がいるわけだが、結局何かを得たところで何もないということもわかっている自分の存在にも気がついている。
ただただ、生きるということを拒絶しようとしてできないでいる自分。
死という厳然たる終焉の前にただ生きるということだけしかないということを理解しつつ、それすらも拒絶しようとしている。
どうしたのか?
ただ、生きればいいじゃない?
生きることは、表現につながるという確信を大学時代に得て以来、表現するというやりたくて仕方がない。
けれども、本当にそれをしているのかといったらそうでもない。
他者が気になって、批判して、不健全なまでの空回り。
生きることへの拒絶はそこから来ている。
ただただ、自分が何かをする訳ではないけど、他者が何かしてるのを傍観してる。
その絶望感を増幅する行為を続けているだけ。
何か答えがあるとしたら、自分が自分として生きればいい。
つまりは自分らしく、表現し続ければ良い。
他者なんて、関係ない。
ものごとに良い悪いなんていうけど、結局、無常、空。。。
多分、自分の中で、無常、空ということへの理解と社会の価値重宝とが衝突している。
何をやってもいい。
だけど、善悪を決める社会の価値の前に僕は何もしないことを選んでいる。
ああ、なんという情けなさ。
自分の行動は自分の思想の現れである。
そんなことを思うと、社会、他者の価値感に自分が負けて、それを気にして、批判して、無気力を学習して、止まってしまっているのか。。
ただただ、欲に負けて、怒りに身を任せ、無知のままな自分。
それが今の自分だ。
それだけが今の僕のもちものである。