今僕がやっている分野は、大きくは情報、細かく言うと情報検索である。
今日は、自分のやっている分野について、思ったことを書いておこうと思う。
まずは研究ということについて
僕自身は、研究者の親父をもっているから多少は、研究というものをやるだけの資質があるのかもしれない。だが、僕自身の興味は幅広く、そのくくりではくくりきれないと僕自身は思う。ただ、研究という視点だけをみれば、それなりに世界を構築できるのかもしれないが、僕はそれだけの世界に興味がない。デザイン、美術、芸術という世界を多少なり齧って思うことは、表現を通して社会とコミュニケーションをとるということの重要性である。だが、研究というものは、口では社会への貢献だ、意義だ、コミュニケーションが重要だと言うが、僕が思うに実際に社会への働きかけがあるのかと言ったら、そんなことは決してないと思う。研究というものを一つの表現だと見なすならば、おのずと外とのコミュニケーションがなければ、それが表現として成り立たないのではないかと思うことが多い。表現をやって、それが外の人間からどのような反応が得られるのかを見て、そして、そのフィードバックから得た新しいものを次の表現に反映させて、表現をしていく。それが僕が思う、表現ってやつのあり方だと思う。ただ、今の僕の立場、院で研究活動をやり始めて思ったことは、外とは隔離された世界であるということだ。どことなく内輪だけの世界になっている。一生懸命、社会に対して科学教育の重要性だとかを、科学者が宣っても内輪で完結しているのだから、聞いてもらえるはずもない。研究をやって、研究で完結してしまって、それ以降の成果、技術などを使って社会に還元されずに、終わってしまうのが多いのではないだろうか。やはり、他の人がやっていることを見る限りでは、今ひとつ、それが有意義なのか判断しがたい。やってる本人の視点であったらいいかもというものが大半だったり、どことなく本人が理解してないでやっているということがしばしばあるように思う。ただ、専門をやってるだけって言う感じで、周辺分野への予備知識なしにやっているように感じることが多々ある。専門といってもどことなく、ある閉じた世界の話だったりして、結局のところある世界で認められていることの延長でしかなく、うまく社会への適応ができるものではなかったりと今ひとつ面白みに欠ける。そんな感じにどうも、院で行われていることへの不信感、まあ、もとい専門教育への不信感といったら良いのだろうか、そういった諦めにも似たような感覚から研究というものへの批判が僕自身の中から消えない。やってる本人たちからしたら、有意なもののように思えてみても実際の応用だとか、使われ方を想像してみれば、それが意義があるのかどうかということが見えることが多いのではないかと思う。特に、工学の分野としてみた情報の場合だと、社会への応用可能性、製品としての意義があるかということが如実に出ると思う。使えるものを作らないといけないという意識は、研究者としては不要なような気もしなくはないのという、矛盾を自分の中で抱えていたりするからたちが悪い。研究は、原理の発見であり、定式化であり、そこから別のものへの応用ではないかと思う。最後の応用は一概にすべての理系分野にあるとは限らないが、原理を追求して、それを何らかの言葉として落とし込むということは共通してるはず。そういったことを思いつつも、どうも、院でやられていることがそれを模した別のなにものかの用に感じられて仕方がない。仮定を間違えればいくらでも意見の展開ができてしまったりするわけだが、その仮定が勝手に定義され幅を利かせているようにも思う。そもそもの仮定が間違っていれば、出される答えに意味はない。仮定を疑わずにしてものごとを物事がすすめられているように強く感じる。例えば、アインシュタインが特殊相対性理論を考えたときに、そのときの物理の世界では、光の媒体としてエーテルが存在するはずだと固く信じられていた。多くの学者先生は、その仮定のもとに様々な実験、理論展開をやっていったわけど、そもそもの仮定が存在してなかったのだからまったくうまく行かなかった。その仮定を疑った結果として光の不変性というアイディアが生まれ、特殊相対性理論へ発展した。(相対性理論についてそんなに勉強してないから、まちがっていたらごめん。)仮定にとらわれるということが往々にしてあるわけだ。
しかし、はっきり言ってしまえば、情報の世界に限ってしまえば、よっぽどの変なことでない限り、実験でできてしまうし、ものを作り上げてしまうことができるわけだ。そもそも、情報という分野が取り扱うテーマというのは、現実世界の仕組みの探求というところが大きいように思う。人間がどうやって思考してるのか、どうやって世界を認識してるのかとか、そういった現実のものをモデルに落とし込んで、コンピュータ上でシミュレーションしている。また、コンピュータを媒介として人間の能力の拡張の話などがある。しかし、どちらのテーマにせよ、コンピュータ上で好きなように実装して、試してみて、意図するような結果をだすことができる。コンピュータというツールの厄介なところがあるすれば、想像できたものは大抵のものは実現できてしまうところだ。実現するためにはある程度のコンピュータとコミュニケーションするためのすべを学ぶ必要があるが、他の理系分野の実験にくらべたら簡単なことだ。つまり、どんなに妄想的であろうと実装してしまえば動いてしまう訳だ。そこに大きな落とし穴があるように思う。いくらでも仮定をつくりだすことができるということだ。例えば、未来型のデバイスというものを考えるにしても、こういうものに違いないと言った瞬間に仮定を作り出すことができる。そして、それをもとに研究を突き進めてある程度形にすることが可能なのだ。ところが、その仮定を第三者からみれば、全然見当違いであったりすることが多い。それを如何に社会に適応するのかという視点をもっていないとその時点で、なし崩し的に研究、そのものの意味が薄れる。周辺分野への興味、実際の社会におけるコンピュータの使われ方を知らずに、ただ頭の妄想だけで動いてしまうのがこの分野の恐ろしいところである。
妄想だけで形になってしまうというのは、かなり自由でやりたい放題でいいように感じる。だが、それが本当に良いことなのかと言ったら、他人に迷惑をかけなけらば問題ないといえれかもしれないが、それ良いのか僕は疑問である。ある意味で、デザインの世界と一緒なのかもしれない。良いデザインは、世間に認められるが、それ以外は、ただの作者のマスターベーションとなる。多分、情報の研究というのは、そういった側面を強く持っているのであろう。意義のあるデザイン、意義のないデザインの違いを考えれば、多少乱暴ではあるが、ある種の普遍性を持ち合わせているのかもちあわせていないかに議論を収束することができるのと、一緒ではないかと思う。良いデザインは様々な要素を考え抜かれるが、悪いものは、そうではなく比較的容易な意味付けから作り上げられているように思う。ある意味で、どの分野でも言えることなのかもしれない。パレートの法則を思い出す。もともとの意味は世界の富は上位20パーセントの人間によって持っていかれているということをいった法則だが、よくものごとは20対80の関係に収束させることができるということをうたうときによく使われる。初めの作業20パーセントの段階でものごとがどうなるのかというのは決するというのがよくわかる。どんなに残り80パーセントを頑張ろうと最初が最悪ならば意義もなくなる。やはり、良いものというのはどの分野でも共通の特質をもっているのかもしれない。
情報という分野、単品でみたとき、先述のように実際世界の仕組みを見ていくものとコンピュータそのものの研究という二つに大きくわかれる。後者に如何に社会と結びつけていくのかということもふくまれる。しかし、この二つがあるわけだが、結局のところ、現実世界との接点なしに語ることはできないわけだ。どうにも、その辺の現実世界とは無縁だというスタンスをとることに陥りやすい分野故に、妄想的なものが多いように思う。現実世界をしらないとまともなものを作り上げることができないと言うことが言えるかもしれない。どんなにいいアイディアだといってもそれがどのように使われるのかとか先のこともかんがえられなければいけないということだろう。現実世界への理解ということを元にいろいろと考えれば、今やってることの意義の有無が見えるはずではないかと思う。けれども、社会への貢献、還元という言葉をつかってそれをやってるような感じではまずいけない。本当に使えるものを作る、研究するためには、まずは、現実世界を理解しなければならない。
そういったスタンスのもとに、現実世界を理解するということをやらなければならないわけだが、そこには他の理系分野とは違った難しさがあるのではないかと思う。他の理系分野の研究対象は往々にして自然を対象にすることになるが、情報では、自然+人間+社会+コンピュータといった複合的なものへの理解が不可欠となってくる。つまりは、理系、文系分野すべてへの理解なしにこなすことのできない複合的な分野だということだ。単純にコンピュータそのものを理解するにしても、どうやって処理しているのかということを知るためには、ある程度の数学とほんの少しの物理の知識が要求される。結局、そういった側面をしらずにものをつくることは可能でも、デザインの基礎を知らずにデザインをやっていくのと同じ冒険をおかすことになる。自由にデザインをしたっていいじゃないかという意見もあるだろうが、実際に人とコミュニケーションするわけで、その方程式をしらなければ、ちゃんと人にものをつたえることができない。往々にして、無意識ながら人とコミュニケ−ションする上でどんなものがいいかは身に付いていて、デザインをちゃんと学んだことがなくてもある程度、形にすることができてしまうこともある。けれどもある程度以上、自分の意思を伝えるとなると、ちぐはぐなデザインでは伝えられない。デザインにおける伝えるための知識というのは、時として制約になってしまうこともあるにはあるが、伝えるための強力なメソッドを提供してくれているのは間違いない。それと一緒で、コンピュータをちゃんと理解するということは、コンピュータをどのように扱えば、こちらのやりたいことをコンピュータに伝えることができるのかコミュニケーション手法を身につけること他ならないのではないか。
一つのことを理解するのだけでも大変だが、それだけでないのがこの情報という分野の特徴ではないかと思う。コンピュータに何らかの新しい機能を持たせようとした場合に、その機能がどのように動いて、どのようにつかわれるのかということを考えなければならない。前者は、どうやったらその機能を実現できるのか、そして、どんな方法を使えば効率的になるのかということを考えることになる。これは、理系的な頭が要求される。そして、後者は、どうやって使われるのか、人間の反応、社会的な動きなどをみなければならないわけだ。大抵はここまでは、理系の情報屋さんの仕事ではないとおもわれるかもしれないが、それを考えないことは先述のように意義あるものにするために必須のことであることは言うまでもない。しかし、こんな器用にものごとを考えるためには、いろいろな知識が必要になるのはいうまでもなく、はっきり言えば大変この上ない。しかし、このコンピュータという存在で、我々は情報というものを取り扱うのが前時代に比べて数段に楽になっている。情報を手に入れることが容易になってるわけだ。つまり、知識を吸収するにはいくらでもできる時代なのだ。卵が先か鶏が先かはわからないけど、膨大な知識が必要とされる分野の前提条件はその分野それ自体によって解決されているわけだ。そういったことを考えると、決して大変なことではないのかもしれない。現実世界とビットの仮想世界を取り扱わなければならないが、まだまだ発展しうるという意味では面白い分野なのではないかと思う。
話は大分ずれたが、この分野を取り扱うための知識の話に戻ろう。この分野を本当にやるのであれば、先に述べたように文系、理系、結局のところ、人類の財産すべてとむきあわなければならないわけだ。まあ、こういった問題意識をもつことができるかできないかは、受けて来た教育に左右されるように思う。理系だ、文系だという区分とは無関係な世界に一時、身をおいていたから、僕はこういった視野を持つことができているのではないかと思うことがある。理系だけのことをやっていたらたぶん、こんなこと思いもしなかっただろう。多分、技術が、理論が、ということをの宣っていただろうとおもう。広い視野を持つことが要求される分野で狭い視野でやっていたら、うまくはやれない。ただ、多くの人がそういった一つの分野だけに縛られている。結局のところ、デザインの話でもあったけど、広い視野をもっていかにやっていけるのかということが鍵になるということだ。すべての分野で共通のことなのかもしれないけど、大抵は狭い自分の分野という殻にこもっているように思う。ジェネラリストはよくないと言われるけど、自分というものの興味向くままに一つの分野を極めていくと必然的に多くの分野とふれあうことになる。自分が何を考えているのかみていくと一つの分野にとどまることはないように思う。そう考えると、流されるままに無自覚に生きてるものが多いのかもしれないなと思う。
何をするにせよ、その人の表現となる。アウトプットがどのような形になって来たかでその人がものごとをどのようにとらえているのかわかる。僕自身、自分のアウトプットがちぐはぐであり、そして、あまりに多くの分野にまたがってしまっているが故に、専門は何かと問われたら答えられないような状態にある。ただ、自分の中での切り口として、情報というものを持っている。そのことを鑑みながらいろいろと考えている。けれども、表現として完全に冴えることはない。情報というものを中心にすえてるはずなのに、情報という分野でちゃんと表現しきれてない。ただ、自分の中で見える、他者への刃だけが日に日に強くなる。どうして、こうじゃなくこうなんだ。そんな、批判しかない自分もまた自分である。自分は他者より高い位置にいるわけじゃないということを言い聞かせている、理解している。けれども、あまりに周りの権威主義、馴れ合い、そういった没個性的な世界をみていると、末恐ろしい気がしてしまう。自分が自分であるために、表現していかなければならない。ただの生き様としての表現じゃなく、形のある表現として。今のだらしがない自分は、自分の表現なのだということを自覚しつつ、そして、他者は自分に関係ないのだということを言い聞かせて、自分を表現していく。その表現がどうか、少しでも世界の役にたちますように。。。