どこか、失敗することの恐れから行動することが億劫になってしまった大学時代。今も続いているけれども、失敗を繰り返して、振り返れば、行動していたものからいろいろ学んで、次の行動へつなげて来てもいた。失敗することも行動することも、結局は些細なこと。何もないに等しいわけだ。自分を自分として活かして来たことは残り、自分を他者として、刹那的なものとして処理したものは残らずにながれていった。でも、残らないはずのものへの執着やら、斜視でみたりやらで、それによってもたらされた不幸と名のつくものは、些細なものの極大解釈でもたらされた。些細なものを如何に極大解釈しようが、自分という内面世界の宇宙の前では、可能性も固定され、どんなに逆立ちをしても一定の思考しか想起されないもので、何も生み出さない。そんなことを気付かされる出来事が立て続けに起こり、ようやく、自分というフィルタを通して世界を歪めてみてること、些細なことへのこだわり、我が儘な自分、愛のない自分、自分の可能性の否定など、負の感情を想起しうるトリガーが自分によって選択されていたことに気付く事ができた。それで、気付けたから、今は多少は楽になったし、刹那的なものからの脱却を試みることができるようになったとおもう。それを気付かせてくれた、僕の友人、家族、そして恋人だった人に心からの感謝を
うたかたの夢の中でみていた刹那的で未来を作り得ないものは、僕にとってそれがすべてで、自分を苦しめているのに関わらずそこから離れる事ができなかった自分の居場所だった。些細なことをこだわって自分の立場をなくしたり、可能性を否定してなにもできなくなってみたり。。刹那的なものへのこだわりは僕に一時の幸福をもたらしはしたが、流れ行き最後に残ったのは空虚さとこの世への絶望だった。どうにもこうにも足掻いても抜け出せないという現状だったわけだ。けれども、それが今のある姿でも、少しずつ変わって来てるということを感じる。刹那的なものを求めるのは時にはいいけど、もっと永遠なるものを求める方向に自分が動いて来ているようにも思う。世界に如何に貢献するのか、如何に自分の周りの人に夢を与える事ができるかなど、そういった愛、慈悲、思いやりのある世界観が刹那的な自分本位なあり方と共存しはじめてる。他者に活かされる、生かされる自分というやつを感じはじめているのかもしれない。そこで、時間は掛かるかもしれないけど、自分を犠牲にすることを決意し、行動しはじめているのかもしれない。それは、より良いもののための犠牲であって、負けるための犠牲じゃないと思う。行動ということを日に日に意識するようになったし、それが未来のための行動だと思えるようになった。それで、僕の夢は、世界に、身の回りに愛を、それも永遠なる愛を与える事になりつつ在るのではないかと思う。今は、まだ我が儘で、自分中心だけど、結局自分には何もないと等しい位の力しかないし、それと同じ位の身分しかないけれども、自分の内面世界の無限の可能性を信じて、そして自分からの解放を少しずつしていくことで、外部世界に与え続けることができるのではないかとおもうようになってきた。自分の目を閉じ、自分の場所をもって、行動をとれば、いつか小さな消えそうな声も世界に届くだろう。
憎しみだとか、負の感情がまだ僕にはたくさんあって邪悪な存在だけど、愛する事は辞めたくはないと思う。過去に愛していたけど、今は違うなんて事はいいたくない。愛を表現することができることができなくなってしまっても、なおも愛し続ける。負の感情と愛が共存し続けるけど、愛は忘れたくはないし、それは消えないものだと思う。自分を鍛錬して、強くして、すべてをポジティブにみれるようにしたい、そして、すべてを受け入れる強さ、優しさ、愛を自分の中にもちたい。相手を否定するような癖は今もなおもあるけれども、いつかはそんなな些細なことへのこだわりもなくし、すべてを受け入れられる強さを。自分のもとへ、誰かが戻ってくる、来るという状態があったならば、僕は拒まずにすべてを受け入れたい。愛は永年に消えない。愛を強く、そしてちょっとやそっとのことでなくさぬように、自分を強く、自分の弱さを見つめることができるようになれるように生きていきたい。自分の未来は、どうなるかわからないけど、無いのと等しいものへのこだわりを捨て、内面世界の無限の可能性を外へ出し続けるだけの強さを身につける為に僕はこの命を掛けて行く。自分の回りの人の夢を応援し、支え続けるだけの力は今はないけれども、いつかはそれができるようになりたい。すべての人が幸せであれるよう、世界が幸せであれるよう、少なくとも自分の周りの人が幸せであれるよう、自分の愛を与えつづけることをしたい。自分の弱さからの脱却を。自分の内面世界の宇宙の無限の可能性を信じて歩み続けたい。それが僕の今の夢だ。