既存技術の水平思考という言葉を、ユリイカのnintendo特集で知った訳だけど、それを実践する任天堂が世に繰り出したwiiという次世代機がそれを完全に体現していると思った。散々、技術的に他の次世代機に比べて劣っているということをバッシングされていたけど、技術という面に関してはそれは否定できない事実ではあるけれでも、新しいゲームの可能性を提示したという意味では真の次世代ゲーム機である。他の次世代機は本当に技術的にすばらしいけれども、実は、PCでゲームをした方が技術的レベルの高いゲームができる。そういったことを考えると、今の新世代ゲーム機の新技術を詠うものは陳腐なものではないかとおもってしまうわけだ。専用機で開発すれば、ゲーム分野において時代をリードできるようなものができたのはPS2までは無いかと思う。専用機が魅力的だったのは、技術的に優れていたのはもう一時代前の話だと思う。それで、任天堂が出した答えは、技術を切り捨てて、コストを押さえ、独創的な要素によって、他とは違う路線を切り出した。その結果として、非常にゲーム性があるものとなった。なんでもかんでもあたらしいものがいいのかというと、多分違うということになるんだろう。新しくても使いこなせてないものは、意味がないということがPS3、Xbox360を見るとよくわかる。ただ奇麗なだけなものというのは,確かにいいがゲームとしてはものたりない。だんだん慣れて来て飽きてくる。普遍性というものを考えると、奇麗なだけで極端なものはだめだ。バランスが取れてるものこそがいい。ゲーム性だとか、物語性を犠牲にして画面の奇麗さだけを要求するようになって、陳腐化していったといことなんだろうか。どこか、勘違いが生んだ結果なんだろうとおもう。技術がすばらしいというのはわかるけど、バランスの欠いたものは結局普遍性がない。そして、それは長続きしない。そんなものがはびこっているのが現代なのかと思うと、見え隠れする技術だけの社会というものが面白いのかと言ったら、自己満足でしかなく、そんなのは空しいだけだとおもう。それが、どんな分野でもいえそうだ。分野を細切りにして、それだけで至上だという考え方は、どんなに愚かなことかということを改めておもった。
しかし、wiiは次世代の日本の希望だと思えた。そして、そうしたものと今の技術至上の流れとの戦いがこれから繰り広げられるような気がする。