にっちもさっちもいかない状況というのは、突然やってくる。けれども、それでも、動き続けることができるということが、今の僕の状況だ。結局のところ、自分の非ですべてがそうなったというのが、事実なのではないかということを僕は思う。その苦境に立たされて、思うことは、淡い希望だけが心の支えになっているということのようだ。自分がなすべきことをなしてもなお不幸はやってくるし、災難はやってくるんだということを認識してるのかもしれない。こんなときにそばに誰かがいたらどんなに気が楽なことかということを認識しつつも、誰もいないという事実しかなく、そこを嘆いても仕方ない。どうにもこうにもいかないという状況で自分を救えるのは自分だけだということを認識するだけで、それ以上に救いになりそうなものは幾分かの友人たちの言葉だけなのだということだ。自分には、そういった尊いものがあり、何もないわけはない。だけれども、こう言った状況というのは自分で、どうにかしなければならないわけで、自分は、孤独の闇の中にいるということを強く認識するだけだ。闇をみるつもりがなくても、闇が常につきまとっている。そん名感じに自分には、一抹の希望だけをたよりにどうにかあがくことしかできないようだ。周りの雑踏の中で、自分の内なる声は、自分に決断をしろという。そして、行動しろともいう。なにより、雑踏の淀みの中で淀みを感じつつも澄んだものを見続ける。心の限界はない。あるようでないようだ。自分の定義を一度しなおしてみるとはっきりとそのことは明瞭になり、無限に広がる、内面世界がちゃくちゃくと世界を浸食していく。みえるもの、みえてないもの、それぞれあるかもしれないけど、自分には、どれもが自分のフィルタを通して歪められている。けれどもそのことを認識してみると、大分澄んだ世界がみえてくる。淀みすぎたものを見続けて、自分も淀んでいた。結局のところ、自分を定義できるのは自分だけであり、自分の世界は自分だけのもののようだ。その世界が世界へにじみ出てきたら、世界は自然と同調しはじめる。そんなことを思いつつ、今の苦境を考えると、結局大したことのようでまったくもって瑣末な問題にすぎないような気がする。
物事を大きくとらえることはいいけれども、そんな細かいことに気を使っていたら気がおかしくなってしまう。細かなことへのこだわりをすて、自分の自己のフィルタを理解し、内面世界の可能性、無限性を信じることに、自分を成長させてくれるものがあるのではないかと思う。そんな感じに考えるに、どこか歪んでしまったと思う、自分の心はまだ、真実をみていない。瑣末な問題を拡大してるだけにすぎない。混乱する必要性はどこにあるのかといったらまったくもってない。ただ、あることがあるだけ。リスクを背負うことをいつのまにかやめるとリスクを背負い込むだけであろう。なんというか、つくづく、自分には、広い世界が広がっているんではないかということを感じるだけだ。