高校時代には、強く抱いていた疑念はいつのまにやら姿をかえてきえたものだと思っていた、けれども再び僕の前に現れて、それが僕の運命なのだとつげるがごとく、自分が歩んで来た道とこれから歩むべき道を示してくれた。
自分が、大学入る時にがむしゃらになって中堅どころの大学に入って、その後に独学で徹底的にやるんだという意気込みは、自分の計画のちょっとした狂いから散々な目をみて、精神的にもよくわからないことになった。すべてが他の所為で自分は無力で非力なものだということを思い込んでいたわけだ。ところがだ、結局、自分がどうしてそういう風に独学で道を極めようとしたのかということを理解してなかったし、自分というものの非限定的な可能性をしらなかった。逆に自分がやろうとしていたことは今いる場書で学ぶべき側面というのが幾多にもあって、それを学べたことを幸運だと思う。完全に自分が進むべき道からは外れているようにみえるが、結局人の道をはずれることが道を極めると言う言葉の中にあったわけで、それは全然当初やりかったことと矛盾はしない。自分を形作る経験やらが妙な広がりをみせ、視野の広がりを与えた。自分の中でのものの考え方やら見方、学び方というのを身につけて来たわけだ。結局のところ必要なものだったわけだ。
自分が抱える社会への偏見なのかはわからないが、救いようのないような現実が存在しているということを昔から思っていた。無意識的組織犯罪。なにか生きて行く上での必要悪なのかそれともただ楽だからという理由でおきているのかはわからない。けれどもそれの所為で社会は住み悪い場所になっているという意識があった。その存在に対してなにかできないのかという自分の欲求が、道を極めようという気持ちを高めたのだろうと思う。なぜ、どうして、どうやって、なにで、といった基本的なものが定義できないままにその気持ち悪さを本能的に感じて動こうとした高校時代。それからときが一巡して頭にいろいろと貯えて見えて来て、それらの5W1Hを定義できるようになってようやく、自分の道を極めると言うことの意味と目的が一致した。それで、手段と目的が一致したわけだが、そこからなにを生み出すのかはわかっていない。ただ、方向としてこっちなんだろうということだけ。外側から見て、考え、学んで、新しいものをつくるということだけがわかっている。たぶんそれが僕のやり方なんだろう。おもしろくなりそうだ