情報機器の発展、IT革命、webの進化、テレビ普及。。そんな感じにいろいろと情報を扱うメディアが増えてきた。これらの情報機器が発展してきて情報量が増えたような感覚が芽生える訳だけど、どこかしか、自分の人生がそれによって大きくかわったということはあまりないような気もしなくはない。そんな、情報機器が増えて、情報が増えたといわれる今、何かいいことはあったのだろうか?
情報機器の発展で様々な情報へのアクセスがかなり簡単になってきているのは間違いないのだろうけど、それだけが情報なのかといったら嘘なのではないだろうか。日頃、ネット、テレビなどの情報端末に触れていない間にもひとは多くの情報を摂取して、それを消化する。その何気ない日々の中にも情報が存在する。それは経験、知恵、知識として人の中に蓄えられる。それのアウトプットとして、今の情報機器から提供される情報が存在する。それゆえに、人が処理する情報でも感覚的に不足している情報なのではないだろうか?五感を通して得られる情報と、特定器官に絞られた情報。特定箇所を刺激する情報が増えているのが、今の社会。それを考えるに、どこかしか本当の生存とは関係ない情報の叛乱が起きているのではないかという疑いが浮かぶ。その一部の身体への感覚は本当に自分の糧となりうるのか?それだけでは糧とはなりえない。それだけを摂取して、情報をもっているということはいえないだろう。人がいかにがんばろうとアウトプットしたものは完全にその作者が意図としたものを表現できていない。その作者の感じた感覚の再現はある程度実現可能ではあろうが、完全には復元できない。情報伝達の不完全性が存在するのにも関わらず今の情報機器はあたかも、人の糧となりうる情報、そのものであるかのように偽装する。そこからえられた情報が本当に役に立つのか?情報の海の中で、情報を取捨選択して、そこから新たな情報を経験する手がかりとする。そんなプロセスが必要なはずなのに、情報を鵜呑みにして、自分の経験として獲得したかのように情報通となる、現代人はなにを思う。なにか、どこか空虚な社会になっているのはその辺に原因があるのではないだろうか?情報機器を発展させて、情報の提供を増やしたところでなにもない。
なんだろうか、人が日常で触れる情報と、端末から提供される情報の差はなんだろうか?一つあるのは、端末情報は一方通行で、日常的情報は双方向であることであろう。もうひとつは、感覚の限定か、感覚の無限。その二つの違いだけを考えただけでも情報機器は不完全な存在としてなっているのがわかるだろう。しかし、だからといって完全に否定できるものではないだろう。端末機器から発せられる情報と行動があわせられれば恐ろしいほどに力を人に与えうる。日常情報と端末情報の融合がもとめられるのではないだろうか?今の状態でも、それは可能ではあろうが、それをするのは切り替えが必要で非常に、リンクさせることが困難であろう。端末からえられた情報をいかに行動に適応するのか。また、情報をいかに発信するのか。。いろいろと問題を抱えるのが今の情報化社会ではないだろうか。。
情報革命は、おそらくその情報端末が日常の情報取得の補助的な役割をしてはじめてうまくいくのであろう。無理に軽量化して常に持ち運ぶのではない、情報だけを提供するものであってもだめ。人の情報処理を手助けするものにならなければならない。そこに今の情報機器のありかたと相反するものがあるのではないかと思う。人の道具なのか、器官なのかという議論もあろうとは思うが、結局のところ、人生を形作るということができなければ革命は起こりえない。アウトプット、インプットを別々のやるのではない同時にこなすことであろう。情報は一意ではない、多様な意味を持ちうる。一つの情報への注釈、知識を与えるのは同じ鉄をふむ。
情報というものをとりあつかう人という存在をもっとしらなければならない。ビットとアトムの出会いはいつになるのだろう。。