今日、哲学の世界で、疑うことで信じられるという話を聞いた。疑えば疑うほど信じることができるというものだ。過去のblog以降前の日記にも、格言から信じるためにすべての物を疑うのだという一節を借用した。他人に向けてだけでなく、自分自信の戒めとして日記に書いた。自分は今日の今日まで、自分自身は何事も疑って、何かを信じているものだと思い込んでいた。
それで、今日、仲の良い仲間と久しぶりに飲み屋にいった。その中で恋愛のことやら、その他諸々の話をしたわけだ。そんないつも通りの話をして、終わった。それでその帰りの電車の中で自分自身の他人への恐怖感の存在というものが、自分への不信から来ているのではないかと感じた。そのヒントになったのが飲み屋での話だ。他人の視線が怖くてとても顔見知り程度の仲のひとと目があわせられないという内容だ。その話をした段階ではなんとも思っていなかった。それが普通なことだという友人の話を信じることにした。だが、電車の中であれこれ考えていくうちに、自分自身を信じていたという虚構の存在を感じたのだ。何の理由もなしに、何の疑問もなしに、今の自分を信じていた。どう考えても、自分という存在の可能性を過信していた。信じることしかやってこなかった。未来は明るい、今日が真っ暗でも明日があると。または、なんでもできるのだと。なんとも愚かなことをしていたのだろうか。こんなことは虚勢以外のなにものでもないではないか。ただ、妄信的に寄りかかることすらできないものを心に抱いて自分の中の未来への希望をみていたのだ。それだから、不安定にもなる。確固たるものではないのだから。この土日で自分という存在を信じるために疑ってみようと思う。今まで、未来への希望を持ち続けてきたが、それはなんとも根拠のないものだったのだ。自分自身を突き動かすには不十分だ。未来への期待は、絶望でしかない。大きければ大きいほど、その絶望も大きくなる。自分はそれを何の役にたたない自分への過信で立ち向かおうとしていたのだ。だから、すぐに折れてしまうし、歩けないのかもしれない。
信じるために疑う。自分を疑う。自信をもつために。。
《兵庫県 淡路島 夢舞台にて α707si SINBI100》