恐怖ということをなんらかの形で感じると、自分が都合がいいように解釈し、言動を発する。そういったことを、何らかの形で感じると、それを如何に変えるか考えようとする。けれども、自分がいつもたっている場所が他者にとって、都合が悪かったりする場合、変えようにかえられないということが多々ある。自分の立ち位置をできる限り、他人には迷惑のかからない場所を陣取れるように気を使っているわけだけれども、必ずしも自分の観点と他人の観点とが一致しないことの方が多い。それゆえに、様々な憶測が生まれ、自分が意図としてなかったような結果がうまれる。自分は、他者に対して、自分が都合のいいような捉え方ということをしないようにしてきてるつもりだ。なかなか自分の最適な行動をとろうとしてもとれない。結局のところ、人は人毎に様々な観点で物事をみている故に、最適解のようでも最悪解になってることがある。いいと思われてることが悪とみなされたりするのもそのせいであったりするのだろう。かなりいいことはかなり悪いことである。それは物事の表裏いったいであることを考えると必然なのかもしれない。いいことをすれば同時に悪いことをしてることになる。その同時に起きる矛盾した出来事を自分はどう対処するのか。。
はっきりいえば、一時の思いだとはいえ、いいことをしたいとかられる。あとからすれば、それが悪いことでもあったと思うことがある。行動を取るときにどんなにいいことをしようとしても悪いことが内在するが故にプラスにもマイナスにもならない。それを考えると、行動を起こす気力もなくすし、人にいいことをすることをも億劫になってしまう。昨日、奈良で阿修羅像をみたが、それが表現してる事象が頭をよぎる。生を意味するのと同時に死を意味するその像を考えると、人間存在の矛盾した特質を描きだしてる。なんというか悲劇的な特質なのかもしれないが。。とりあえず、いいこともわるいこともしない、中庸でありたいが、何もしないと同意のような気がする。行動するからにはかならず、いい面も悪い面も生じる。それをどう受け取るか。。破壊は創造、創造は破壊。そんな感じだ。
人はそんな矛盾の中で生きてる。相手を理解して、理解されても、第三者がどのような判断を下すかは未知である。関係者には善でも、部外者には悪、そんなことは多くある。主観性をもちつつ、客観性をもつ。うーん。。それは善と悪を同時に意識することになり、取捨選択をせまられるわけだ。そんな器用なことは今の僕にはまだできない。善は善であればどんなに楽なことか。。