どうやら、本を読むことが習慣化したらしい。。
大学入って多少は本を読むようになったかなと思っていたのだけど、最近は完全に本なしでは生きていけないほどの状態になっている。それがいいことなのか悪いことなのかわからないけれども、とりあえず、本を最初から最後まで通して読んでしまえるくらいの集中力は養われているらしい。それゆえに、最近は昔はとても集中して読めなかったような理系の専門書系統も読むことが難なくできるようになった。本を読むことはどうやら、健康のために体を動かすのと同じように、精神の健康のためにいいらしい。それゆえに、最近は大分精神的にらくだし、考えもへんに凝り固まることが減ってきている。なんだろうか、本というものの本質を考えると、虚構にせよ、啓発にせよ、専門書にせよ、なんらかの著者の経験、知識、知恵などの蓄積の上になりたってるわけで、そのことを求める人間になんらかの解答を与えてくれる。
人は、同じだけ似て、また同じだけ違うものだ。しかしながら、たいていの悩みやら、行き詰まりやら、欲望やら、感情やら、つらい状況などっていうやつは形は違えどにたようなことを昔の人は経験してるわけだ。それについておのおのの作家、著者が、それを通して学んだことや、それへの対処の仕方などを後続の人にしめすような形で本は存在してるのだと思う。それゆえに、にたような状況に関しての本を読めば、なんらかのソリューションが提供されることになるわけだ。それをどのように料理するかは、おのおの次第なのだが、まったくゼロから考えて、同じところをぐるぐる回るよりかは、先輩たちが通った道を本という形で追体験して、問題に対しての解答を出す方がいいのかもしれない。必ずしもその行動により、結果がでるわけではないけれども、自分が唯一無二でどうしもなく、この世でもめぐまれてないと思うよりかは、先に歩いた人もにたような状態であったと知った方が気が幾分か楽ではないかと思う。それゆえに、本を読めば、読んだだけ、本来ならばそれなりの時間を要してだされる結論が幾分かの短縮をみることができるのではないだろうか?
人の人生は短い。その中で如何に効率的に解答を得て、そしてあらたな生産、創造にかかわっていくのか。そういったプロセスをやる上で、先の人々の知識、知恵、経験、思想、哲学などにふれられるものが存在してるのにそれを利用しない手だてはない。独創の可能性は否定はしなけれども、結局のところは人の今までの積み重ねがこの世を作り上げ、そして、その環境の中で自分は存在する。人類の歴史の中での流れの一滴として、自分は存在してるだけだ。完全なる独立した存在ではなく、流れなのだ。本をよむという行為を通して、その流れを感じつつ僕は今日も本を読み続ける。