ここいら、進学のための勉強やら、商売のための勉強やらでものつくりをほとんどしていない。実際はものつくりをするということをしているのかもしれないが、意識的にものを作り上げていると言う感覚は殆どない。しかしながら、まちがいなく勉強をしつつ作り上げられていくものは後に形になることは間違いないだろう。なんだろうか、勉強というものを作るプロセスから遠く離れているような感覚があるようなのだが、実際頭の中にはいろいろとアイディアが浮かんだり、新しいものの見方ができるようになったり、ものつくりの礎をなすようなものがつぎつぎと起こってくる。それがいつごろ形いなるのかはまだわからないが、近いうちに今の将来を決める作業が終わったら本格的につめたいと思っている。まあ、今というタイミングでは、完全なるアウトプットはできないが、ただ今ものつくりに対して思っていることを綴っておこうと思う。
今、ものをつくりあげること、デザインすること、創造することに関してのいろいろと考えさせられている。僕は、今の立ち位置から世界を俯瞰すると、僕自身はとてつもなく小さな存在かのように思えてしかたがないのだが、それと同時に人間一人に与えられた力について考えるようになった。ひと一人に与えられた力を過小評価したとたんに自分の世界を狭める事になるということを感じる。自分は小さな存在で、馬鹿で、能無しであることを世界、自然、宇宙を感じた時に思う事なのだが、だが、同時に自分の中に広がる世界、自然、宇宙を見つめるとそんな自分でありつつもそれと一体であることを感じるのである。小さきもあり、大きくもあるということだ。感じ方によっていくらでも変わってしまう。ただ、そこにあるのは、ものをつくる上で最も根本的な問題が潜んでいるのではないだろうかとおもったわけだ。
小さきもあり、大きくもある自分というやつに気が付いてやれなければ良い仕事は出来ないのではないだろうかという事である。ものをつくりあげるということは、自分の小宇宙を外にだしてやることに等しい。しかし、そこには既存の、自分の存在する、外界が存在するわけで、そのバランスを崩すことをしでかすようなものは、弱肉強食な世界では生き残れないし、最終的には自分の存在を危うくするかもしれない。だからといって、バランスを崩さずに無難に納まるようなものをつくりだしてもその場限りでおわってしまうだろうし、自分の労力の無駄、そこまでいわずともただの手遊びでストレス解消におわってしまうだろう。マスターベーションなのかもしれない。それで、先に述べた大きくもあり、小さきもある自分が重要になるわけだ。それはつまりは、バランスだ。陰陽の関係が重要だということだ。その二つの相反するものを如何に折衷するのか、それがものつくりで必要なことなのではないだろうか。
こういう抽象的な事を書くと非常にいやがられるのだが、まあ、ただのメモ書きなのだ。今、僕自身の頭の中にある、アイディアの凶暴さとそれの世界のアプリケーションのバランスの問題を考えた結果としてこれを上記に記した。何をどうすれば、いいものがつくれるのかこれは大いなる悩みだ。しかし、これを悩む事が人間に与えられた特権なのかもしれない。ものをつくりあげることは人間にしかできない。そのものをつくりあげるという行為がいかに自分たちに影響をあたえ、世界を変えるのか常々考え続けなければならない。無限の可能性を体現する方法として、自らを地獄へおとしめる物として、自らに無意味を与えるものとして、自らに意味を与える物として。。。
2006年夏、銀閣寺にて ”まがるみち”
デザインについて
ものをつくることとデザインは、僕の中では等価である。それと同時にアートとデザインも然り。
気が付けば、その区分にとらわれる事がなくなっていた。そのことは様々な経験、本、知識、人との出会いの中で、着々と見出された答えだ。しかし、この答えが真理なのかといわれたら、ただしくもあり、まちがってもいるということが念頭にあるが故に真理ではないと答えざるを得ない。それでも、無意味な境界の問題で悩むやりはものを妄想、想像し、創造していったほうがまったくもって健全であるということを思うようになった。しかし、その差異について考える事は時として時代に受け継がれてるミーム的なものを知る上で良いのかもしれない。それゆえにそこから完全に離れる事はできないし、くっつきすぎることもない。
知らぬ間にものをつくることが色々なことに通じていることを感じ、それにとまどいながら、ものをつくり続けている。それが、人であるからなのだろうということを最近は感じている。そのものをつくるという行為を楽しめる、今に感謝を
新しい自分が見たいのだー仕事する by 河井寛次郎