本ブログ、最終書き込み。
かれこれ3年近く書いてきたけど、常日頃から書いているもんでもなかった。
なんか、思ったことを適当に書きつらねてきた。
自分の中の正と負。
その交互が入り交じっている。
それが、僕を成長もさせてきたし、停滞もさせてきた。
その扱いが理解できていなかった。
今も、朧げでしか理解してないし、それを実現させるに至っていない。
これからは、如何に自分を成長させる方向に重くするか。
今、僕の中に、あるもの。
僕を僕として足らしめ、この世につなぎ止めているもの。
世界を変える。
世界をより良き場所に帰る。
それを自分の興味で切り開く。
建築から情報へ。
でも、結局どんどん結合していって今まで、見た夢が大きな夢に統合された。
そして、一つの大きな夢は、いろいろな指針を与えてくれる。
同時に、すべてがすべてにつながっているという実感が強くなり、やらなければならないことが洪水のように増えていく。
それと比例して、本を読む量が増えた気がする。
けれども、まだまだしらなければならないことが多い。
そして、やらねばならないことが多い。
そう、もっと効率的にいきなければならない。
どこまでも続く道を限られた時間で遠くへ行くか。
時間は限られている。
けど、うまくそれを成せない。
けれども、少しずつ、やっていくしかない。
まだ、時間はある。
チャンスもある。
そして、限界までやるしかない。
Life is short。
理想追求。
それが答え。
そして、次へつなげる。
次のステップへ。
ブログは、近日中、とあるところに新規スタート。
中身は、果てしない道を如何に攻略するか。
そして、世界を変える。
その過程を記そうと思う。
戦争のない世界へようこそ
といいたいところだが、戦争は終わってない。
戦争は始めるのは簡単で、終えるのは難しい。(QED?CMB?どちらかから引用
それで、今だに戦争は続いている。
世界を巻き込んだWW2の傷跡は薄らいで入るけど、消えはしない。
戦争を始める理由。
金、権利、プライド、いろいろなものがある。
そこには、怒り、欲、無知が潜む。
それを止めるのは、理性なのか、本能なのか?
だれも、そこに自分自身の問題が潜んでいることを自覚できない。
自分が己を見る、観察するということができない。
そこから、人を獣にする感情たちが出てくる。
何にせよ、そこに人が人である、理由が潜む。
負を生む、感情たちが、人を人として足らしめるものであるなら、
逆の正を生む、ものを作り出すものも人の性分。
けれども、人類が歴史を刻んで来た中で、その双方が消えるということはなかった。
必ず、共存してきた。
それは、己の中にも存在する。
負と正へ誘う、相反する二つの性質。
つまりは、人類にとって、切っても切り話せないものだということだろう。
けれども、負というのは、正が出ている限りはでてこないし、
負が必ずしも悪として働くわけでもない。
ただのバロメータとして働く。
自分がなにを感じているのかというのを知る手がかりとなる。
正を出すためには、負が必要。
共存関係。
表裏一体。
けど、負というものの性質は、正よりもでやすい。
それは、なぜか。
負というものは、死へとつながりうるもの。
特に、感情という側面をみると、ありもしないことを妄想して、それがあたかも死というリアリティへ綱がる。
その破壊への妄想が、負へ執着させる。
負へ執着すれば、それが、結果として、負をさらに生み出す。
これが、人類、そして僕が繰り返してること。
それからの脱却。
たぶん、負というのは、バロメータ以上に使っては行けないのだろうと思う。
例えば、何らかの怒り、不安、落ち込みといったものをそのまま行動へ移したならば、それは破壊につながる。
けれども、そこに、理由がなんであるのかというのを一歩踏みとどまることで、それがなんでもなく、新たな正を生み出す可能性が生まれる。
多分、未熟ということを知るという意味でのバロメータになる。
負が未熟のバロメータであるということを認識し、それから正を生み出せれば、どんなにすばらしきことかな。
戦争をもたらしうる、負の感情というものを操るというのが鍵であろう。
それは、人類にとって、きついものであるのは間違いない。
マッチョとウィンプの差があるのかもしれない。
そのこころは、自己鍛錬という言葉に収束する。
受身と能動の差。
自分のおかれた状況において、それを周りの所為にして、言い訳を考え続けるのと、環境を変えようと行動するのと差。
中身を見れば、負の感情で、負への道を歩むのと、負を見て、そこから正を生もうとするものという負の扱いの差になっているのではなかろうか。
戦争は、自分の中にある。
自分を、律すること。
自分を見ることが正につながる。
無煙化工事続行中。
ニコレットも一日2個に減った。
ただ、間食がものすごく増えた気がする。
ストレス溜まってるのかな。
どうしたものかな、僕を突き動かしてるもののスケールのでかさが、不可能を可能にする。僕の心は、とうの昔にズタボロなはずなのに、ポジティブな思いが顔を出して、ネガティブな自分を押さえる。お金とか、地位とか、権力とか、そういったものとは、一線を画したものが僕の中にある。
梅田望夫さんのウェブ進化論からはじめる、次世代ウェブ3部作を読んでから、僕は、建築という道を諦めて、もっと多くの影響力をもつ、コンピュータの世界へ傾倒していった。これは、間違いない。
たぶん、そういった視覚的な美を求める世界の方が自分には合っているというのはわかっていた、けど、それよりも世界をもっと良いところにする、視覚だけでなく、より多くに影響をあたえられるということと、まだまだ成されるべきことが多いということでコンピュータの世界でのものつくりを目指そうとおもった。コンピュータは、個人の力を拡張する増幅器的な役割があると思う。それは、中高時代に、CGをやっていて、自分の表現可能なものが格段に増えるという実感から来ていると思う。自分のベースの能力が微小であっても、コンピュータのサポートで大分、みれるものになる。それは、ますます、コンピュータというものを使い込んでいくと見えてくる。ただ、同時にその増幅を掛ける前の自分の能力も高くなければいけないという意識も芽生えた。誰しもがコンピュータを扱えるようになるということは、みんな同じだけその恩恵を受けられる。つまりは、差別化を測るには、昔ながらの自分自身を鍛えるしかないという法則は何一つかわらない。けど、出来ることは、一昔前のPCが一般的になる前よりも遥かに増えた。それは間違いない。それ以前と以後とで、同じようなことをやっていても意味がない。出来ることが遥かに増えてるのに、同じようなことをやるということは、手を抜いているということだろう。PC普及以前と以後とで、アウトプットが同じものでも、パソコンによって増幅された部分を考えると、自分がしなければならない部分というのはかなり軽減されている。それがある故に、以前と同じようなアウトプットだけを出していても、自分の能力をどんどん積み減らしていくだけで、どんどん手を抜いた生き方になるのではないかと思う。そんな感じに、増幅としてのコンピュータというものの可能性が実感としてあって、コンピュータサイエンスをまじめにやろうとしているわけだ。
けど、コンピュータそのものの発展は、ドッグイヤーという言葉が象徴するように、発展が早く、中身がブラックボックス化している。その中身を理解しなければいけないということはないと思うけど、そのファンデーションがどうなっているのかということへの理解は、自分が何かものを作るときの助けとなる。それは、絵画だとか、映像だとかの、見ためがどこから来て、どうしてそんなに感動できるのかということへの理解と同じようなことではないかと思う。ただ、ひたすらに感覚的に理解しているところと、言葉として、知識として、知っているという双方が合わせ合って初めて、独創的なものを作り出せるのではないかと言う確信が僕の中にある。それゆえにそのブラックボックスを紐解くことに余念がない。ピカソとか巨匠と呼ばれた方々がどうして歴史に名を残すかというとやはりそういったファンデーションへの理解と感覚的理解があったからではないかとおもう。自分の感覚を研ぎすますためには、自分を見るということと、そういった自然原理へのつぶさな観察が必要になる。怒り、欲、無知といったものを理解し、そこから自分をあぶりだす。この行為こそ、なにかを作り出す、創造的生き方につながりうるのではないかと思う。
ただただ良いものが作りたい。そして、この世界をより良いところにしたい。その願いが日に日に大きくなっている。それが、僕を突き動かしている。そして、それが具現化し始めている。だけど、まだまだやらなきゃいけないことが山のようにある。机の上の分厚い技術書の山がそれを語っている。それだけじゃない、まだ、買ってもいない技術書の山がその背後に潜んでいる。どこまで行けるのだろうか?まあ、一日、たばこを5本吸うような感覚で、少しずつ読んでいけばいずれは、どこかへたどり着いているだろう。それが、すごいところへ行く唯一の方法。
そろそろ、書いておこうと思う。
僕の目指すところを。
日本から、新世代を担うような企業は今、生まれてない。
HONDAとか、sonyとか、世界にインパクトを与えたような企業はここ2、30年でてきてない。
特に、IT分野となるとそうである。
敗走をつづける日本のIT企業、あるいはガラパゴス携帯と揶揄されるような、情報機器しか生み出せていない。
世界にインパクトを与えてる企業はない。
Intel,microsoft、apple、googleとかそういった企業はまだ日本にはない。
じゃあ、それを作ろうではないか?
これが僕がやること。
もう、海外を追従するだけの国になりさがった母国じゃ、なさけないだろ?
だから、世界が追従してくるようなすごい企業をつくってやりたいじゃないか?
無理だって?
ああ、無理かもしれない。難しいから面白いじゃないか?
無謀だって?無謀だから、面白い。
いまやらねば、いつできる。
わしがやらねば、たれがやる。
by 平櫛田中
いつぞやに、ある人に、旅行中は禁煙というお願いされて、期間中禁煙して4日が最長だった。
そして、その記録は、あっさりと塗り替えられた。
今回は、ニコレットという補助剤を使っての達成だが、自分が中毒であるということを認識してなかった故に、今まで禁煙しようにもできなかった。
けれども、それを受け入れて、補助剤の使用で、あっさりたばこから遠ざかった。
なぜに、2年前、使わなかったのだろう。。
やはり、プライドがそうはさせなかったのだろう。
自分が中毒であるという、事実から目を背けていた。
中毒であるということを認めるのは、簡単なようで難しい。
どこか、自分はいつも正しいのだと思いがどこかにあるんじゃあるまいか。
それが、今までうまく行かなかった理由なのかもしれない。
いつも禁煙すると、あと一本だけすったら禁煙する。
最後にするんだとか言い聞かせて、またたばこを吸い始める。
けど、その一本がとんでもない。。
一本吸ったら、あともう一本とどんどん次から次へと手が伸びていく。
そして、いつもどおりの本数になる。
気怠さを感じつつ、吸い続ける。
そのわずかな量だからいいという感覚が膨大な量へとつながる。
例えば、一日2、3本を吸い続けるとすると、年間700から1000本近く吸うことになる。
それが、例えば、数学の問題であるとたたえるとものすごい量である。
他のもので置き換えるととんでもなくものをこなすことが出来ていることになる。
洋書を一日20ページでも読むと一ヶ月も立たないうちに読めるということになる。
この僅かな毎日の積み重ねが、悪いときは、ニコチン中毒をおこし、良いときは、確実なステップとなる。
その僅かな量をバカにしてないだろうか。
結局、とんでもないところへ行く方法は、毎日の小さな積み重ねしかないのだろう。
押すことができたのか、これから押すのかわからねど、着実に変えられるものを変える。
ニコレット導入で、禁煙3日目。
効率化、目指して、日々、勉強量を増やしてる。
そして、アウトプットをする。
あとは、自分の感情が何者であるのか、観察するということ。
悪しき習慣の排除。
一体、これらがどれくらい習慣として残るのだろうか。
社会的地位だとか、お金だとか、そういったものが必要だと思うけど、執着すると碌なことがない。
これは、間違いない。
学生と社会人で大差あるというけれども、そんなに違いがあるなら、とうの昔に偉人が山のようにいるはず。
そんなこともない。
会社にまもられてるか、学校に守られているかの違い。
まあ、恨み節なんだろうけど。
自由、公、責任、これらが丁度いいくらいに混ざりあうスイートスポットが見えて来ている。
そこは、自分で、勝ち取る。
たぶん、それは自分でしか、勝ち取れない。
与えられたものがなんであれ、それしかできないのであれば、生きるためにそれをするとか、社会の歯車だとか、そんな御託ならべて誤摩化して、人としていきてないだけ。
人の本質は、どこにあるのか?
人が人足り得るのは、ものをつくりだせるということ。
この点が他の生物と違う。
自らの複製を作り出すことはできてもそれ以外のものを作ることはほぼない。
遺伝子の表現系として、人工物があるのかもしれないが、もしそうだとしてもおそろしく複雑で、それを表現しきれていないではないか?
まだまだ、作り出せる。
巣だとか、子孫だとか、そういったものと違ったものつくり。
ものをつくりだすことに本質があるとすれば、ものをつくりだせないというのは、生きることを否定してることではないか?
まあ、子づくりに励んでれば、作ったことになるのか?
サービスにせよ、工業物にせよ、そこには、ものが作り出されている。
それを意図的に作り出せるか、それとも誰かの意図のもとに作り出すのか。
その両者は同じようでまったく違う。
前者は、生物本能以外のところでのものつくり。
後者は、生物本能でのものつくり。
生きた証を刻むなんて、よくいうけど、芸術がそうであるようにすべてのものがそうである。
すべてはなんらかの表現。
それが真であるならば、自らの手でものを作りたいじゃないか?
人生こそ、表現ならば、表現をやらないなんて嘘だ。
金?そんなもん、後からついてくる。
地位?そんなもん、後からついてくる。
だからなんだっていうんだ?
必死に、社会にしがみついて、これが俺だって、働くことが証明してくれるって?
歯車になったつもりで、消耗すらされないで、なにをいうのだろうか?
結局、歯車にすらなれてないのではないか?
正しい正しくないと人はいうけど、そんなもん関係ねえ。
あるのは自分。
自分がどうあるか。
会社にいたって、ものつくってるやつは輝けるし、いなくたって、もの作ってるのは輝いてる。
歯車だ、ルーチンワークだ、ということを主張する、あるいは本当にそう扱おうとするやつがいるとすれば、犬生きしてる。
これは間違いない。
どんなところにも創造性の可能性はある。
だから、ただはじめればいい。
創造的に中庸であればいい。
ただ、ものを作り続ければいい。
“The person who knows HOW will always have a job.
The person who knows WHY will always be his boss"
by Alanis Morissette
ジオブリーダーズの引用より引用
さてさて、戦いが始まった。
僕自身の感覚と僕の弱さと僕の欲と僕の怒りと僕の無知。
これらの源泉はなんなのか。
認知して、そこからわき起こる感情が僕を支配している。
力がないように感じるのは、そこから負の感情。
欲と怒り。
不安やら、恐怖やら、これらの力を押さえようとする感情らは、僕の中にある。
そして、昔の感情と結びついたこららは、僕の中でループして、いいしれぬ大きな感情となる。
そして、行動を抑制する。
負の感情がどうして大きくなるのか。
頭の中で、ぐるぐる回って、成長して、ありもしないことへの感情をより大きくする。
そして、なにもできなくなり、そして、それが増長される。
怒りというのは、負の感情を全般的に言う。
不安、恐怖、怒り。。
これらは自分の中でどんどん勝手に増幅して、行動が抑制されて、そしてそれが増幅への触媒に。
そんな繰り返しで、大きくなり、それが自分の弱さへつながる。
欲もおなじような仕組みだ。
けれどもこれはしょうもない行動へのトリガーとなる。
一時の刹那的悦楽への誘い。
それが欲によってもたらされる。
それが大半の行動となると本来とるべき行動がとれなくなる。
無知は、無関心、無知。
ものごとが大量に存在する。
けれども、自分の関心事だけが世界のすべてであると思うと、それで世界は閉じられる。
結果として、なにもみえなくなる。
自分が選んでみた世界で歪められ、そしてそこから前述の2つがわき起こる。
これらが、もの。
そして、これらをどうにかコントロールすることができるのか?
できる。
経験と繰り返し。
習慣。
そして、勇気。
ただ、それだけ。
脳科学と原始仏教がおそろしくも符号する。
それが、今、僕が得た知識として、おそらく自分をかえうるもの。
それを如何に智慧と昇華させることができるのか。
この2ヶ月が勝負となるだろう。
自分に勝つために自分を知る。
そして、自分を観察するということが、習慣へとつながればいい。
だれしもが無垢な初心者である。
僕も、ただの初心者。
それが結論。
やるかやらないか。
ただそれだけのこと。
些事だと思って、いい加減になせば、そのものごとを過小評価したことを後で味わうはめになる。それが、今の僕に当てはまることである。しっぺ返しというのだろうか、どこか不満が募るようになる。こういうはずじゃなかったと思う。でも、実際そこにあるのは、ものごとを最大限でなく、手を抜いてやった、やらなかったという事実だけで、そこには、自分が達成したという実感がないわけだ。どんなに、ものごとを多くこなそうと達成感、満足感が得られないのはこういうことなのだろう。常に100パーセントじゃなきゃ、だめなんだろうと思う。そこに嘘が少しでもあれば、すぐに自信を失うことになる。それの繰り返しで、いつしか僕は、もぬけの空となった。
一般的なものごとへの態度と裏腹にだれもやらないようなこと、無謀だと思えるようなことに対しては常に100パーセント、あるいはそれ以上で挑戦しつづけるという奇妙な構造ができあがっている。これが、映像制作であれ、デザインであれ、コンピュータであれ、他者にはまけないと思えるものを作り上げているのは間違いない。妥協のない態度であたれば、自信も付いている。そう、出来ないのと思って、投げているものと出来ると思って受け入れているものとの差がものすごいことになっている。ただ、何事も実力で妥協なしに当たれるようにならなければならないのではないか?
それは、完璧主義なのではないかと思っていた。けど、違う。その時点の自分の中にあるリソースをどれだけ出しきれるかということであり、完全を求めるものではない。なんだろう、到達できない完全へ向かっていく試行。そんなにやっても解はいくらでもあるし、それらがどれも同じくらいの価値を持っている。完全を求めた作品を作ろうとすると、何もできなくなる。この線が気に食わない。こうじゃない。もっとこうなんだと延々考えて手が動かなくなる。ただ、betterを求める試み。その時点でいいと思えるものをだす。そんな繰り返しだ。完全でなければいけないのではない。ただ、いいものを作りたいのだ。それもその時点で自分が出し切れるもののすべてを使って。
だから、極単純に、できないという思い、自信のなさがあるとすれば、どこかで妥協をしているのだろう。その妥協の繰り返しが、ただの犬生きの生活へ誘う。100パーセントこそ、美しい。これこそが生きることではなかろうか?
みたことのない自分が出してくれとせがむのだ時代を読むということは、重要で、自分が生きている時代がどんなもので、どこへながれていこうとしているのか感じる力ってやつは、生き残る力になる。これが、妥協なしにいきるということとどう関係するかといえば、すべてはすべてにつながるということだからだ。どんな些事でもなんらかの関係をいろいろな方向へ延ばしている。簡単な例でいえば、心理学、脳科学、コンピュータサイエンスの組み合わせが一見無関係だといえてしまいそうだが、複雑に絡み合っている。単一の専門をやればいいとよく言われるけど、その辺をちゃんとみていくと専門の枠組みがひどくいびつであるなんてすぐに気付けるはずである。ただ、他は些事で自分に関係ないなんていってしまうと、ものごとの複雑なwebの前に微小なもの、あるいは間違ったものの見方をするようになる。そう、ものごとに優劣つけることをした時点で、そのしっぺ返しを食らっている。自分はなになにの専門だからという人がいるとしたら、その人はなんらかの他の分野への教養ももちあわせて、はじめて専門がなんたるかを知ってる人間ではないか?小難しい言葉を並び立てて専門家ですら首を傾げるような議論をし続ける人をよく見かけるが、言葉遊びにしかみえない。本当にできると言わしめるような人は、簡単な言葉で話すし、難しい概念も理解しやすい形にして咀嚼しやすいようにしてくれる。ほんものとにせものという分け方する気はないけど、人間を生きているか、それとも犬生きしているのかということの分岐は、ものごとに対するスタンスの違いなんだろうと思う。無知(無関心)、怒り、欲のどれかをもちあわせてるとすれば、途端にひどくこりかたまったものになって、しょうもないくらいに、他者からみておもしろくない。本人からしてもそうかもしれない。
まあ、なんだろうか、すべてはすべてに通じるということと、ものごとを妥協せずにやるということが、わからないと全体の流れなどわかりんせん。多分、これから先、僕は、何事も妥協しないことをしていかねばならないのだろう。
科学の芸術をしらなければならない。
芸術の科学をしらなければならない。
感覚を研ぎすまさなければならない。特に視覚を研ぎますべし。
すべてはすべてに通じると留意せよ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
楽しいという感覚がどうもいまひとつ、悦楽的な意味合いでしか理解できてないのかもしれない。肉欲的に、煙草、マスターベーション、食べ物を求めるだけが楽しいと思っているのではないか?そんな気がする。その刹那的な快楽は、幻影を見せる。これをすれば、すれべノープロブレムだと。けど、本当にそうなのだろうか?時に、張りつめた精神を癒すために、いいだろう。けど、それがすべてになることが多い。それを求めるために、本来、手段であるはずものが、目的と化して、ただの犬生きになる。
そうだとして、犬生きじゃない生き方を求めることはどういうことなのか?もう一つの苦痛を伴う楽しむということにあるのではないかと思う。なにかを勉強する、作る、生産的なことをするということにはなんらかの刹那的な悦楽はいっさいない。だけど、その積み重ねが楽しみに変わる。だんだんと形作られ、形になった瞬間に、達成感を味わう。あるいはその最中に自分の感覚がどんなものであるのかということが見える。感覚が研ぎすまされて、自分が何を求めているのかみえてくる。そして、自分が何を考えているのかがみえてくる。ただ、その理想を追求するには、自分は無力で、実現できない。だから、ただひたすらに積み重ねていく。その積み重ねで、少しずつ、己の望むものが形づくられていく。そこには、自分という存在と自然という存在がせめぎあって、無常というものを明らかにし、そしてその中での自己の意味を紡ぎ出す。たぶん、欲だとか、無知(無関心)とか、怒りとか、そういったものを通り越したところに自己を発見できる。感覚としてあるのだけど、そういった感情がない状態がそこにはある。失敗だとか恐怖だとかもない。ただ、やることだけに意義を感じてる。そんな状況に心がときめいている自分がいる。
この境地になるためには、たぶん自分の出し切れるものを全部ださないとだめだ。中途半端にやるんじゃなくて、他のことをいっさい気にもとめず、ただ集中する。そのことで様々なものが切り捨てられるが、そこに本当の自分が見えるはず。全力でやる。何事も全力でやらなければ意味ない。先の刹那的な快楽に逃げるのは、全力でやってないからではないか。
常に全力でやれるよう精進したい。
知り合いが、卒論を書き上げたようだ。どうも状況を良くわかってしまうがために、猛烈にうれしくなった。周りがいなくなったあとのロスタイムを孤独にやらなければならない。特に最後の最後が一番きつかった。それを達成した後の感覚は何とも言えない感じがある。達成できたことを友人として、一緒に祝いたいけど、僕は遠く奈良の古都からでられないが、この地から祝いたいとおもう。
言葉にするとどうも言いたいことが言えないな。。伝える方法は言葉しかない。それゆにこそばゆい。言いたいことが全部つたえられない。けど、それしかない。感覚としてたらない。もっと良い表現があるのだろうと思うのだけど、それが伝えられない。ボキャブラリーの足らなさと言葉の不自由さを噛み締めてここに記す。
ありのままを受け入れることができないということは、ものごとにせよ、人物にせよ、よくある。けれども、どの事象にせよ、いい面と悪い面が必ず存在する。あるいは、ただ存在してるだけということだ。なんだろうか、何らかのものに対して感情というものを誘起するのであれば、多分そこには”自分だけの世界”が広がっているのだろう。自分に関する事象で思い通りにならないとか、あるいは他人から違った視点を提供された途端に混乱することがある。結局、事象をある側面でしかみてなかったということだろう。そこで必死になって、自分が思う、”自分だけの世界”を外にも外延して、それが世界で、誰もみてる世界は一緒だと言い始めたら、非常に歪んだ生き方をすることになる。常識だとか、自分の持っている知識だとかが、本当にそうであるはずだと思い込んで、行動して、時として恥をかくなんてそれの最も卑近な例ではなかろうか。自分ルールで世界をみて、あれはいい、悪いと判別してるだけで、本当の姿を見ようとしていないのではないか?例えば、僕が世界がとんでもなく歪んでいる、憎しみにあふれているということを言えば、それはある側面では合ってるけど、良いところがあるだろうし、憎しみだけなはずはなかろう。そういったものだけど、でも、大抵は、自分の都合のいいように解釈してしまう傾向にあるのではないか?水は低きに流れる、人もまた低きに流れる。この言葉をふと思い出すのだが、都合の良いように解釈するというのは、らくだ。そして、何よりそうあってほしいのだから、そうなのだと決めつけてしまうのがらくだ。結局のところ、そういった、心の働きをみていくと、自分がみている世界というのは、自分がそうあってほしい世界なのではないか?いろいろな妄想で世界を歪めてみて、それが実際の世界だといってしまうからいろいろ不都合がおきてくるのではないか?
まあ、なんというか、人はみたい世界をみている。ひどい世界だと思うなら、それが自分を望んだ世界なのだ。ある側面しかみてないのに、それを極大解釈して、これこそ世界だといってるのだ。ただ、あるだけのものをみたい側面からみてる、あるいは自分が望むような形でみている。だから、ちょっとしたきっかけで別の側面がみえたら、怒り出すなり、落ち込むなり、負の感情を爆発させる。
なんだろうか、多分、自分のみてる世界は、ある側面しかみてないという確信があるのだけど、絶対的にある種の妄想的な要因が世界を歪めてみせているという事実で、僕はすでに自分の妄想の住民で、そこから如何にぬけだすのか、妄想がどんなものであるのか、そういったものが分かってはじめて、何からも自由になれるのか。